なんでもノート U

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「自主回収って??」       2000/8/31

最近、マスメディアでは、食品に異物混入→製造元が自主回収、というニュースが毎日のように報道されていますが、なんだか???と思いません?

1)今年の夏になって異物混入という現象そのものが急に増えたとは到底思えないですよね。つまりこういう現象は前からあったが、メディアで報道されることは少なかったし、製造元が自主回収することも少なかった、と思われます。

2)雪印の食中毒事件をきっかけに、メディアの報道が激しくなり、また、雪印の対応のまずさを目の当たりにした食品メーカーは、消費者からの苦情がきた場合に、イメージダウンを恐れて隠すよりも、早目の情報公開と自主回収がいいやり方(場合によってはイメージアップにすらなる)だと学んだ。

ここまでは、いいと思うんですが、私の疑問は

3)数十万個という商品を回収して廃棄するわけですが、そのうち、異物混入がある商品はまったくない可能性も高い。あっても数個という単位でしょう。あとの数十万個は何の問題もないのにゴミになる(まさか「再利用」してないでしょうね!)。その商品を生産するのにかかったエネルギー(資源、人の労働)も無駄に捨てられる。

4)大規模な工場でオートメーションの大量生産ラインで数秒に1個というような速度で生産される製品に、不良品がでないほうがおかしい。そういう食品(レトルトとか缶詰とか飲料とか)にはそういうリスクがあって当たり前のような気がする。食品メーカーもきっとそう思っていて、「お客様係」というような苦情受付窓口を作って、個別に陳謝・交換をしていたものと推測される。

5)メディアの報道からのメッセージはこういうリスクをまったく認めない、ということ。もちろん食中毒菌の混入はあってはいけないが、それ以外の混入物に対しても食中毒菌と同等の扱いをするのは疑問。

6)昔、キャベツの葉っぱに青虫がついてたとか、ご飯の中に砂粒がはいってたとかいうことは日常茶飯事で、別に気にしなかった。

7)やっぱり、食べ物がどこか遠い、まったく知らないところで作られている、というところに問題があるのでしょうか。例えば電器製品だと、どこで誰が作っているのか知らないし、中身がどうなってるのかさっぱりわからない。保証期間というのがあって、不都合があるとそれはメーカーの責任として修理・交換してくれる。製造物責任というものもある。今や、「消費者」としては、電器製品も口に入れるものも同じ構図になってる、という当たり前の事実を私は再確認しました。

8)そうすると、今の「自主回収ブーム」はそのうち収まり、またもとのような淡々とした、少数の異物混入→個別の苦情処理、というふうに戻るでしょうね。そうしないと、大量生産食品会社の経営は成り立たないでしょうから。

 


2001/2/13

エイモリー・ロビンス『ソフト・エネルギー・パス−永続的平和への道』時事通信社1979年

Amory B.Lovins "Soft Energy Paths: Toward a durable peace" Friends of the Earth, Inc, 1977

「国家目的と各種の制度にたいする信頼が失われてきたために、政府は時の流れをおしとどめようとして、ますます外的規制を強化しているという問題がある。われわれは、スタンフォード研究所グループのベルトラム・グロスが名づけている『”友好的ファシズム”−テクノクラート主義にもつづく厚顔で広くゆきわたった戦争−福祉−産業−情報−警察複合体が支配する管理された社会』が生まれつつあることの危険性を、ますます不快な思いで感じるようになってきている。しかし他方で、個人の価値の領域と同様、政治の領域においてみられる多くの変化が、(いまのところおぼろげにしか内容がわからないが)根本的な文化的変貌へと収斂していくようにもみえる。ここで総合的な原理としてのエネルギー政策が触媒的機能を果たすのではないだろうか。

・・・・これらの問題はたしかに茫漠としており、非科学的である。しかしこれがあらゆるエネルギー政策のはじまりであり、かつ終わりなのである。」(日本語版p.117)

 

「大型技術の開発のために必要な大組織は、往々にして責任の所在が不明確であり、そのために機能が阻害される。そこでは一つのプロジェクトに余りにも多くの人々が参加しているので、結局、誰もが責任を負わない。そしてこれまでの技術感覚での責任は、すき間からどこかにこぼれ落ちてしまうのだ。しかし技術の質に関してより破壊的なのは、このような大型組織のもつ特性、すなわち、初期の探求における活気に満ちたうねりの後に、仕事は定型的となり、そして結局どうにもならなくなってしまうという傾向である。

 この点だけからしても−原子力論争にふれるまでもなく−核分裂はもはや何の面白味もなく、したがって結局うまくはいかないだろう。つまりそれは失敗したのである。大規模技術のとらえがたいが、しかし重要な不利益は・・・それがあまりに大きいのでそれと遊ぶことができず、したがって興味と創造の本来的な息吹が失われてしまうというところにある。

 それに比べてソフト技術は、独創的な職人を出現させ、彼はどこのまともな農業博物館にも飾られているような精巧な(しかし理解しうる)小道具をつくる。そこでは単純さへの挑戦ならびに素朴な芸術味が最大限に発揮される。」(日本語版p.232-233)

 高野のコメント:

「成長の限界」が提起した問題に対する答えの骨組みは、同じ70年代の内に「ソフト・エネルギー・パス」で与えられた。この古典的な書物のなかに、持続可能な社会の見取り図が示されている。「総合的な原理としてのエネルギー政策」が、その幹となる。

21世紀を迎えた今日、問われるべきなのは、この20年間なぜ、日本においては「答え」とは逆の方向に進む勢いを、われわれの先人たちはとめられなかったのか。20年という時間の空白を経た今日、より困難になった「方向転換」をおこなうためには、どのような手だてがあるのか。これらはこの古典には書かれてない、われわれの課題である。