地球科学的想像力

高野雅夫

名古屋大学大学院理学研究科地球惑星理学専攻

masao@eps.nagoya-u.ac.jp

http://www.eps.nagoya-u.ac.jp/~masao

(2000/8/17岩波書店「科学」へ投稿)

 

はじめに

 毎年春になると、理学部の4年生が研究室に配属されて、卒業研究のテーマを決めることになる。たいてい、教師は「まず、あなた自身がどういうことに関心があるかまとめてきなさい。その上であなたの関心に沿う線でテーマが設定できるか議論しましょう」という。それに対して学生諸君から、「自分はこういうことがやりたい」、と熱意ある反応を得ることはまれである。学問は創造活動であって、イマジネーションなしにはスタートできない。しかしながら、私たちの目の前にたたずむ学生諸君は、こと学問に対しては、自ら創造力・想像力を萎縮させているように見える。

 これは、実は無理のないことでもある。私が学部生だったころ、「科学」や「日経サイエンス」の地球科学の特集号を読んで、こっちで言われていることと、他方で言われていることが矛盾しているような論点を、学部生でもいくつか指摘することができた。そのことによって、「自分でもオリジナリティを発揮してやっていけるかもしれない」と思うことができた。しかしながら、地球科学においても専門分化と専門内の先鋭化が進み、そのような雰囲気は今やほとんどない。今日の標準的な理学部生にとって、大学院の先輩や教師がやってることは、雲の上の世界であって、自分の「幼稚な」発想でもって何か意味のあることをできるという気はまったくしないであろう。

 後継者となるべき人たちが創造力・想像力を自ら萎縮させてしまう段階になると、その学問分野は終焉の始まりを迎える。一方で、「地球」は「地球環境問題」として、多くの人の強い関心を呼んでいる。つまり、科学として「地球」を研究し教育することの意義をとらえなおさなければならないのであり、小論はそのための問題提起である。

 

「社会学的想像力」

 

 1950年代のアメリカで活躍した社会学者C.W.ミルズは「社会学的想像力」という観念を提起した(C.W.Mills, "Sociological Imagination", Oxford Univ. Press, 1959. 鈴木広訳『社会学的想像力』紀伊国屋書店1965年)。1950年代のアメリカは、「豊かな大量消費社会」が世界ではじめて実現した時代である。そのまばゆいばかりの光の中に、慧眼なミルズは、人々の「不安」がこの時代を特徴づけていることを発見する。「現代は不安と無関心の時代である。・・・それはいまだ定式化されていない。そこにしばしば存在するのは、漠然たる不安の苦痛である。・・・すべてがただなんとなく不当であるという敗北感が存在するにすぎない」(邦訳p.15)。これまで、自営農民や商店主であった社会の多くの人々は、自分の生活や経営の決定権を自分で把握していた。しかしながら大量消費社会の到来によって、人々は大量に工場労働者になるかホワイトカラーになっていった。そこでは、自分の仕事のやり方や生活の仕方について自分で決定できることはきわめて限られてしまう。

 そのような生活におけるさまざまな制約は抗いがたいものであるにもかかわらず、その制約の主がいったい誰なのかがよく分からない。特定の専制君主や独裁者がいる訳ではない。ここに「ただなんとなく不当であるという敗北感」が存在することになる。今日の日本において「リストラ」の憂き目に遭ったサラリーマンは、不況をもたらした「主」を特定することはできない。景気は個人消費の動向に敏感であるとすれば、当のサラリーマンの日々のお金の使い方の問題であったとすら言われかねない。自分を制約しているのが、自分もその正当な構成員として参加している社会である、という点に、現代社会の謎がある。

 この謎を解く知的な力が「社会学的想像力」である。それは「一人の人間の生活と、一つの社会の歴史とは、両者をともに理解することなしにはそのどちらの一つも理解することができない」(邦訳p.4)と考える想像力である。「社会学的想像力」を持つことによって、「巨大な歴史的状況が、自分たちの現在と未来にとって何を意味し、また自分たちが主体的に参加できるかもしれない歴史形成にとって何を意味するかを知ることができる」(邦訳p.4)。したがって、ミルズは「社会学的想像力が現代の文化生活にとって主要な公分母」となるとしている(邦訳p.18)。すなわち、普通の人々にとって、社会学的想像力を駆使した社会科学の成果を学び、自分にもそのようなイマジネーションを育てることが、漠然とした日々の不安に打ち勝ち、主体的な生活を成り立たせるために必要であって、社会科学はそのような「約束」を担わなければいけない、とミルズは宣言したのである。

 

新しい不安

 

 1950年代のアメリカでおこったことが、高度成長時代の日本でおこり、西欧と日本は豊かで魅力的な大量消費社会となった。しかし、1970年代からは新しいタイプの「不安」が人々の間にうまれた。それは、このような「豊か」な生活が将来にわたって持続できるのだろうか、という漠然とした不安である。大量消費社会は、全体としては、大量の資源採取→大量生産→大量消費→大量廃棄のシステムである。この一方的なモノの流れのシステムは、資源が枯渇することと廃棄物があふれることによって、立ち行かなくなる(図1参照)。

図1 地球(自然)と社会の間の物質移動の概念図。地球から地下資源が採取され、社会に引き渡され、生産および消費を経て、廃棄物として地球に返って行く。また、地球の生態系から得られる資源(農産物・魚介類・木材など)も、社会に引き渡された後、廃棄物として地球に返っていく。この物質移動・循環のシステムを「地球・社会システム」と呼ぶ。このシステムは、@地下資源が枯渇することA汚染が許容量を超えることB生態系が崩壊すること、によって立ちいかなくなる。

 

 二度のオイルショックによって、われわれは、この社会が「油上の楼閣」であることを思い知らされた。地下資源は早晩枯渇することは明らかである。また、農作物、魚介類や木材などの生態系の資源も、生態系自体が崩壊することによって、確保できなくなる恐れがでてきた。

 ゴミ問題は日本における最も難しい課題の一つである。どこもゴミ処分場は満杯状態で、産業廃棄物による汚染に悩まされる。化石燃料を燃やした結果でてくる最大の廃棄物である二酸化炭素が地球の気候変動を起こす可能性が指摘され、人々は言い知れぬ不安を感じている。

 われわれは、人類史上もっとも豊かな社会に生きていながら、どこかで、「このままではいかないだろう」というある種の確信を持っていて、かといって、どうすることもできない、という漠然とした不安と敗北感を共有しているように思われる。

 

地球科学的想像力

 

 毎日何気なく電化製品や自動車を利用する結果として排出される二酸化炭素が大気の組成を変える事態がたち現れることによって、われわれはいやおうなく、日々の暮らしと地球全体とを結び付けて考える必要に迫られる。これには大胆な想像力が必要である。

 28億年前ごろ、生命の進化の過程でシアノバクテリアという酸素発生型光合成を行う生物が出現した。このバクテリアが大繁栄することによって、大気の組成はがらりと変わり、酸素が窒素と並ぶ主成分になり、二酸化炭素が微量成分へと変化した。これは地球史上の大事件であった。今、ヒトというたった一種類の生物種が、地球上にあまねくはびこり、他の生物種を絶滅させたり進化させたりし、大気の組成まで変え始めた。これは地球史上の大事件である。その最前線に私がいるのである、ととらえるためには、大胆な想像力が必要である。

 このような想像力を私は「地球科学的想像力」と呼んでいる。それは、個人的な日常生活のあり方やそのこまごまとした問題を、地球全体のエネルギーと物質の流れの中に位置づけて捉える力である。また、われわれの時代と個人の人生を地球の歴史の最前線として捉える力である。「一人の人間の生活と、地球という一つの惑星の歴史とは、両者をともに理解することなしにはそのどちらの一つも理解することができない」と考える想像力である。

 

「地球」という課題

 

 産業活動が世界全体に広がり、地球の資源と廃棄物の限界が見えたことによって、社会科学はその学問体系の中に「地球」を取り入れざるを得なくなっている。一方、人間の活動が地球のモノの流れや大気組成や気候をコントロールする力をもったことによって、地球科学は人間活動を抜きにして地球を語ることはできなくなった。この意味で、現実には社会科学と地球科学とはすでに共通の基盤にたっていると考えられる。

 こうなると、地球科学も真摯な社会科学者が長年格闘してきた深刻な問いに突き当たらざるをえない。科学研究の対象の中に、当の研究者自身が含まれているのである。このような状況で、「客観的で」「科学的な」対象の理解は可能なのか。

 過去の地球の歴史は、研究者の意思とは独立したできごとであって、それを解明するということには、地球が客観的な答えを準備してくれているはず、と前提することができた。しかしながら、地球の未来を科学的に解明しようとした時、その前提は崩れる。科学の営みの中に、これから人々が行うべき「選択肢の提案」と、ある選択が行われた時の結果の評価が入ってきてはじめて「仮説の提案」とその「検証」というループが閉じ、持続的な学問の営みが成立する。「どうなっているか」を知るだけではすまず、「どうするか」を提案できなければいけない。

 「環境問題」に関心があり、すでに行動を起こしている多くの市民にとって、「地球」というのは知って楽しい対象という以上のものである。「地球」とは、漠然とした将来への不安の源泉である。一方で、それは「主体的に参加できるかもしれない歴史形成」にとっての課題でもある。そのような課題に取り組むための「知の公分母」として、地球科学的想像力を駆使した地球科学が発展していける可能性がある。ここに、地球を研究し教育する意義がある。