雑文の記録

(色んな機会に書いた文章を書き留めておくページ)


見中・磐田南高等学校同窓会だより「卒業生は今」への原稿(2023.10.10)

高36回 道林克禎

惑星地球のマントルと超深海底の研究

 磐南数え歌に「末は博士か大臣か」という一節があったと思う。今でも1年生は入学早々に怖い応援団の下で運動場の土手に整列して大声で歌う練習をしているのだろうか。
  あれから40年を経て,名古屋大学理学部地球惑星科学科の岩石鉱物学研究室で研究教育活動を行っている。研究対象は惑星地球である。地球は表層を大気―海洋で覆われているが,地下ではゆで卵のように地殻(殻),マントル(白身),核(黄身)で構成された惑星である。このうちのマントルは,地球の80%を占めており「地球そのもの」と言っても過言でない。私の研究室では,マントルの主要構成物質であるカンラン岩の物性を主に研究している。
  マントルは,地球表層を覆う地殻から最低でも6km掘削しないと到達できない岩石層であり,今でも人類未到の領域である。そのため,マントルの断片(カンラン岩)を手に入れるために,日本列島をはじめとして,北米大陸,アフリカ大陸,アラビア半島などの大陸調査を行ってきた。さらに平行して,マントルの断片探しの対象を海洋底にまで広げている。海洋底は地球表層の70%を占めるだけでなく,海溝という超深海底にマントルそのものが直接露出している。ほぼ毎年,太平洋やフィリピン海へ研究航海に出かけて,有人潜水調査船「しんかい6500」に乗船して深海底でマントルの痕跡を探している。
  そうした中で,昨年(2022年) の8月13日にアメリカのフルデプス有人潜水船リミッティングファクター号に乗船して伊豆・小笠原海溝の最深部9801mまで潜航した。これにより日本人最深潜航記録を60年ぶりに更新した。さらに我々の研究チームは同じ海域の水深8336mでスネイルフィッシュを発見して「最も深い魚」のギネス世界記録を更新した。そうではあるが,マントルの岩石を採取するまでには至らなかった。
  超深海の記録を更新しただけでは研究は進まない。今後も,名大の学生達と議論しながら,マントルと地球の研究を続けるばかりである。

プロフィール 名古屋大学大学院環境学研究科 理学部地球惑星科学科 岩石鉱物学研究室 教授


静岡大学「創立100周年に寄せて」 への原稿(2022.7.9)

道林克禎 理学部 地球科学 1988年卒

私は第2志望の欄にたまたま記入した地球科学科がどのような学科なのかも知らずに入学したが,大谷キャンパスは活気に満ちており,先輩達はもとより同級生の私服姿も大人っぽく,春の陽気もあって心は躍った。真面目な大学生だったかと言えばそうでもなく,不規則な生活を繰り返して寝坊するようになり,無断欠席の回数が増えて1年前期に2,3単位を落とす落第への道を進んだ。夏を終えて流石にこのままではダメだと奮起して,なんとか2年後期に教養部から理学部へ移行する単位に達したが,最終的に1年次の単位を取得し終えたのは4年後期だったので,実は卒業単位もギリギリだった。それでも,不思議と自分の将来に憂いはなく,学部4年間の講義・実験・実習を通じて次第に地球科学を面白いと思うようになり,大学院修士課程を理学部C棟4階の研究室で過ごす頃には,岩石鉱物の微細構造に魅せられて地球科学分野の研究者になることを志した。その後,オーストラリアに留学して博士号(Ph.D)を取得し,東大ポスドクを経て教員として再び大谷キャンパスに戻って23年間過ごした。大谷キャンパスにおける学生生活は良くも悪くも今の自分の原点であることに間違いはない。振り返れば,学部から修士まで幸せな6年間だったと思う。名古屋大学岩石鉱物学研究室にて。


静岡大学同窓生によるリレーエッセイ への原稿(2020.3.10)

暖冬と東京出張の新幹線  道林克禎(平成2年度 院 理学研究科 地球科学卒)

2018年3月に23年暮らした静岡を離れ,4月から名古屋で単身赴任生活を始めてほぼ2年経った.静岡は山も海も富士山も近くて1年中温暖で過ごしやすかった.名古屋は夏暑く冬寒いと脅されていたので,静岡の気候に慣れきった自分は大丈夫か心配だった.そして,日々の暮らしに慣れてきた7月に気温が40℃まで上がった.日陰まで暑く,名古屋でも滅多にない猛暑だったけど,名古屋の夏を体感した.名古屋の冬はどうか.これまで数日氷点下だった程度で凍えて縮むほどではない暖冬だった.しかし,毎年暖冬とは考えにくいから少し不安である.

東京出張は今も結構多い.そして,名古屋−東京にはのぞみがある.静岡時代に乗る機会はほとんどなかったから最初の東京出張の時にのぞみに乗れたのは嬉しかった.お上りさん状態に近かった.しかし,静岡県にある5つの駅に一つも停まらず,名古屋から新横浜までの1時間20分,どんどん加速する新幹線は結構揺れた.名古屋の同僚が新幹線で乗り物酔いすると言ったことを思い出した.まさかそんなと思っていたが,1時間以上速いまま揺られた状態でパソコン作業していたら30分程で気持ち悪くなりそのまま何もできなくなった.さらにいつまでも速いまま停まらなくて精神的に追い詰められる感じまでした.

静岡−東京間ではひかりでも三島に停まることが多いから,走り出してすぐに停まる感じだったけれども体への負担はあまりなかったと思う.途中でのぞみに追い越されても1時間ちょっとだったし,パソコン作業も捗るから余裕がある時はこだまにもよく乗っていた.おまけに乗車券も今の半額だった.のぞみは速くて便利だけど,乗り物酔いするから車内作業はほどほどにしかできない.そして何より23年間ずっと1時間程度だった感覚が抜けきれず,のぞみがどれだけ速くても東京までの1時間40分をとても長く感じるのだ.静岡って便利で楽だったと名古屋で思う東京出張である.


名古屋大学大学院環境学研究科「環境学と私」への原稿(2019.4.16)

岩石学者 の環境学問題     道林克禎

“天地人”という単語には宇宙の万物の意味がある.興味深いことに,ほぼ同じ思想が西洋にもあって,天はマクロコスモス,地はジオコスモス,人はミクロコスモスに相当する.マクロコスモスは大宇宙,ミクロコスモスは小宇宙と訳すらしいが,ジオコスモスはどうしたらいいのだろう?天と人の間に位置するので中宇宙とするのが妥当かもしれないが,なんだか意味不明である.地宇宙って直訳っぽくすると,語呂的に矛盾を感じてしまう.だから訳さずにそのままにして話をすすめたい.

“環境”という用語は,多くの場合にミクロコスモスである人に関わる環境問題に使われる.これはとても重要なテーマだと思うが,私にとって環境学の“ 環境” はジオコスモスでありマクロコスモスである.ジオコスモスである地は固体地球であり,そのほとんどは岩石とよばれる物質である.この岩石は我々の世界(ミクロコスモス)に欠かせない身近な存在でもある.こじつけがましいが, 岩石はジオコスモスとミクロコスモスを結びつける物質であり ,私にとっての 環境学は,岩石学であり地球惑星科学 なのである .

“岩石”という用語 は,“鉱物”とよばれる自然界に存在する結晶の集合体の総称を表す .4000種以上ある鉱物のなかでもっとも身近なものは,水晶として親しまれている 石英 かもしれない.石英はSiO2だけを成分とする最も単純な鉱物であるが, 惑星科学的にはとても貴重な鉱物である .一方,地球で最も多い鉱物はブリッジマナイト(化学組成は(Mg,Fe)SiO3)とよばれる結晶であるが,2014年に初めて同定された超貴重な物質であり,身近な岩石には決して含まれないし探しても見つからない超希少種である.

なぜ貴重な鉱物が普通で,普通な鉱物が貴重なのだろうか?たぶん ,私たち生命が貴重な存在であるから,である.生命を育む環境(ミクロコスモス)は,ジオコスモスの希少な部分に属しているのではないか.だから身の回りの貴重な鉱物も普通に存在するのではないか. もしそうであるならこの世界(ミクロコスモス)はジオコスモスの環境下でどのように生まれてどのように成り立っているのだろうか.私にとっての環境学の大問題である.


名古屋大学理学部広報誌への最終稿(2019.2.22)

マントルとジオコスモスの探求

道林克禎 地球惑星科学科(地質学) 教授

Katsuyoshi Michibayashi
静岡県生まれ。1994年オーストラリア・ジェームズクック大学でPh.Dを取得後、東京大学理学部地質学教室博士研究員、静岡大学理学部地球科学科助手、フランス・モンペリエ大学博士研究員、静岡大学理学部准教授、教授、研究フェローを経て、2018年より現職。専門は地質学、岩石鉱物学。

岩石鉱物学研究室のウェブページ http://www.eps.nagoya-u.ac.jp/~ganko/

マントルの地質学

マントルは地球の80%以上を占めるほぼ地球そのもので、主にカンラン岩(とその高圧相)で構成された岩石層である(図1)。マントルは上部マントル、遷移層、下部マントルの3層に分かれており、地球中心核の熱を地表に放出しながら1億年の時間スケールで対流している。このうち上部マントルの対流は、カンラン岩の主要鉱物であるカンラン石のクリープとよばれる温度1000℃以上のゆっくりとした固体流動が担っている。

私はマントルを研究している地質学者である。地質学は基本的にフィールドサイエンスであり、地球表層を卵の殻のようにマントルを覆っている地殻の地層や岩石を直接観察して、それらがなぜどのような過程でその場所に存在するのか46億年の地球史の上で理解していく学問である。そのため、単純に考えれば地質学によるマントル研究は不可能である。しかし、実際の地球表層にはマントル断片であるカンラン岩体を観察できる場所がわずかに存在しており、その野外観察と採取したカンラン岩の組織構造や化学成分からマントルの固体流動の性質を研究している。これをマントル構造地質学とよんでいる。地質学によるアプローチはまるでマントルを直接観察しているような感覚があって面白い。

マントルの断片(カンラン岩)を手に入れるために、これまで日本列島をはじめとして,北米大陸,アフリカ大陸、アラビア半島などの大陸調査を行ってきた。さらに、マントルの断片探しの対象を海洋底にまで広げている。海洋底は地球表層の70%を占めているだけでなく、海洋地殻はわずか6km程度の厚さで陸上よりもかなり薄く、マントルが断片ではなく直接海底に露出している場所まで見つかっている。最近はほぼ毎年太平洋やフィリピン海へ研究航海に出かけて、潜水調査船しんかい6500(図2)に乗船して水深6000mの深海底でマントルの痕跡を探している。

水深6,000mよりも深い海は「超深海域」と呼ばれており、生命誕生の場として近年大いに注目されている。マリアナ海溝のように世界最深の海底に露出したカンラン岩は地下2900kmまで続くマントルそのもので、マントル直接研究として最適な場所である。水深6000mから、しんかい6500が浮力で静かにいっきに離底するとき、海底が少しずつぼやけて見えなくなる。地質学による最上部マントルの研究が、惑星探査みたいなフィールドサイエンスだと体感する瞬間である。

ジオコスモスの探求

地質学によるマントル研究は地球のラストフロンティアを探っている感覚があって面白い。しかし、マントル全体を直接地質学的に研究することは不可能であり、地震波観測など地球物理学的な方法が必要である。そうではあるけれども、地質学的に得られるカンラン岩の物性は、物理探査によって得られる地球深部のマントルの情報を解釈するために重要である。

我が国では、マントルに直接到達するために建造された地球深部探査船「ちきゅう」(図3)があり、将来水深3000mの海洋底から6km掘削してマントルに到達する国際共同プロジェクト「マントル掘削計画」が進められている(図4)。私もプロジェクトリーダーの一人として参加しているが、その実現には予算的にも技術的にも多くの課題が残されている。もし計画通りにマントルに到達できたら私たちの地球観は大きく変わることだろう。究極のマントル直接研究である。

地質学的にカンラン岩から地球深部のマントルを探る研究は地球科学の醍醐味である。それは紀元前からはじまり中世のデカルトやライプニッツも取り組んだ「大地の世界(ジオコスモス)」の探求である。興味は尽きない。


名古屋大学理学部同窓会報への原稿(2018.8.7)

4月1日付けで地球惑星科学科地質・地球生物学講座の岩石鉱物学研究室(岩鉱)に静岡大学理学部から異動しました。専門は地質学ですが、もう少し細分すると地殻マントル変動学と構造地質学・岩石学になります。所属する岩鉱は、1951 年に「岩石学鑛物学講座」として創設された由緒ある研究室なので、これまでに築き上げられた伝統を守りつつも新しい風を吹き入れられるように一所懸命研究教育活動をしていく所存です。私の専門である地質学は、基本的にフィールドサイエンスです。地球表層を覆う地殻に観察される地層や岩石がなぜどのような過程での地に存在するのか46億年の地球史の上で理解していく学問です。このような地質学において、私は地殻の下位に存在する広大なマントルを主な研究対象としています。しかし、マントルは地殻の厚さ6kmよりも深い深部を構成しているため、そのほとんどを直接観察できません。私は、伊豆小笠原マリアナ海溝やトンガ海溝などの世界最深の海洋底にその一部が露出していると考えており、有人潜水艇しんかい6500や地球深部探査船ちきゅうを使って、世界最深の海洋底に垣間見ることのできるマントルの直接研究を目指しています。それはまるで惑星探査みたいなフィールドサイエンスです。これから研究室で出会う学部生・大学院生達と一緒に研究していくことをとても楽しみにしています。研究室は理学E館の4階にあります。よろしくお願いします。


名古屋大学理学部広報誌への初稿(2018.6.13)

マントルの直接研究—ジオコスモスの探求—

道林克禎 地球惑星科学科(岩石鉱物学) 教授

マントル対流とカンラン石のクリープ

マントルは地球全体の80%以上を占める主要成分であり、カンラン石((Mg,Fe)2Si04)という鉱物を40%以上含むカンラン岩(とその高圧相)でできている。マントルは中心核の熱を地表に放出しながら1億年の時間スケールで対流している。マントルは上部マントル、遷移層、下部マントルの3層に分かれており、上部マントルの対流は主成分であるカンラン石のクリープとよばれる温度1200℃以上のゆっくりとした固体流動が担っている。

カンラン石のクリープには転位クリープと拡散クリープがある。このうち転位クリープについては、1960年代から続く岩石の変形実験によって結晶すべり系が研究されており、1000℃以上の高温条件では (010)[100]系(Aタイプ)や{0kl}[100]系(Dタイプ)が活動的であるのに対して、1000℃以下の低温条件では結晶すべり系が変化して(010)[001]系(Bタイプ)が活動的になることが知られていた。ところが、2000年以降の実験研究によって同じ温度条件であってもカンラン石の含水量によって結晶すべり系が連続的に変化することが明らかにされ、上部マントルの対流に対する考え方が大きく変化した。

地質学によるマントルの直接研究

地球表層は海洋と大陸に分けられ、海水面よりも高い大陸は全体のわずか30%である。私の研究室では、マントルの痕跡を探して日本列島は元よりアフリカ大陸、アラビア半島などの大陸調査を実施しているが、地球表層の70%を占める海洋底の研究も平行して進めており、ほぼ毎年太平洋やフィリピン海などの海洋底調査に出かけている。

私の専門である地質学は、基本的にフィールドサイエンスである。地球表層のアクセス可能な地層や岩石を直接観察して、それらがなぜどのような過程でその場所に存在するのか46億年の地球史の上で理解していく学問である。このような地質学においてマントルの直接研究は、惑星探査みたいなフィールドサイエンスかもしれない。

しかし、一個人で調査できる範囲も時間も限られている。そこで国内外の主に海洋研究機関や研究者に岩石試料の収集を協力してもらい、水深1万mを超える世界で最も深いマリアナ海溝チャレンジャー海淵やトンガ海溝ホライゾン海淵のカンラン岩まで研究が及ぶようになり、今では世界屈指の海底カンラン岩データベースをもつと自負できるまでになった。

私の研究上の夢は、有人潜水艇で直接1万m潜航して深海底に露出したマントルを直接調査することである。それはさておき、水深6000mよりも深い海は「超深海域」と呼ばれており、生命誕生の場として近年大いに注目されているが、その世界最深の海底に露出した岩石は地下2900kmまで続くマントルそのものであり、マントル直接研究として最適な場所であることは間違いない。

ジオコスモスの探求

マントルの地質学的研究は地球のラストフロンティアを探っている感覚があって面白いが、実際のところ99%以上のマントルを直接研究することは不可能である。一般的に直接観察できないマントル深部の研究は地震波観測など地球物理学的な方法によって行われている。地震波観測にとってマントル物質であるカンラン岩の弾性異方性は、地球深部のマントルの内部構造を解釈するために重要な物性である。

私はカンラン岩を弾性異方性によって分類する新しい方法を示し、日本列島からグアム島南西部まで続く海溝の海底深部に分布するカンラン岩が大陸に分布するカンラン岩とほぼ同じ物性をもつことを明らかにした(図5)。この結果は地球表層のわずか30%しかない大陸で観察できるマントルの痕跡(カンラン岩)について、そのほとんどが海溝起源である可能性を示唆している。現在、この考えをさらに進めてカンラン岩の微細な組織構造からマントルの状態を研究している。

日本には将来海洋底から6km掘削してマントルに到達する「マントル掘削計画」もあり、マントル直接研究によって私たちの生きる惑星の物質科学的理解が進むことが期待されている。地表のわずかなカンラン岩から地球の地下深部の状態を探る研究、それは紀元前からはじまり中世のデカルトやライプニッツも取り組んだ「大地の世界(ジオコスモス)」の探求である。


静岡大学理学部同窓会報への原稿(2018.3.2)

平成30年4月1日付けで名古屋大学大学院環境学研究科地球環境科学専攻(理学部地球惑星科学科)に異動することになりました。平成6年10月1日に理学部地球科学科に助手として着任してから23年6ヶ月間、さらに遡って昭和59年4月に理学部地球科学科に入学してから平成2年3月に大学院理学研究科地球科学専攻の修士課程を修了するまでの6年を含めると29年6ヶ月間、静岡大学にお世話になりました。望月勝海先生からはじまる静岡大学地学関係教室に在籍した教職員66名のうち58名の方々とご一緒し、気がつけば若手から中堅へ、さらにベテランに数えられる立場になりながら、温暖な気候の下、北を向けば雪を纏った南アルプスの山並みや富士山を望み、南を向けば日光に照らされて輝く駿河湾が広がり、西を向けば真っ赤な夕日が稜線に沈むキャンパスで過ごしてまいりました。この間に発表した出版物は152編、このなかには指導した学生73名のそれぞれの活躍がなければ到達できなかった研究論文を数多く含んでいます。この場をお借りして道研卒業生・在校生に心より感謝申し上げます。そして、かつて先輩・同輩・後輩として静大で共に過ごした方々、ご指導を賜った先生方、同僚・中堅・若手教員の先生方、大勢の卒業生・在校生諸君にもお礼申し上げます。様々なことをやりました、色々なことがありました、静岡大学、本当にありがとうございました!


静岡大学理学部同窓会関東支部への原稿(2016.5.11)

同窓会に寿ぐ

○ SNSと同窓会

近頃はソーシャルネットワーキングサービス(SNS)の普及によって,卒業以来会ったことがなかった同輩や先輩・後輩,さらには卒業生に至るまで連絡をとれる情報化社会である.SNSでの交流とは,それぞれが好き勝手にウェブ上にアップした日常の出来事に対して,受け手側が適当に眺めて「いいね」ボタンを押すことによって成り立っている.このようなつながり方は気楽で今の多忙な時代に合っているのかもしれない.同窓会でもSNSは利用できるが,本質的にはアナログの活動である.正直,20代から30代の頃は自分の周りの家族や社会への対応だけで精一杯で,同窓会に関心があったとは言いがたい.しかし,40代になった頃から同じ頃に学生時代を知る方々と当時の静大の様子や先生方の話をすることが懐かしくて暖かく感じるようになったように思う.当時と現在を比べながら,同期だけでなく,大学時代を重ならない大先輩や若い後輩諸氏とも話が弾むのは同窓会ならではである.会うことはウェブ上で眺めるよりも暖かい,それが同窓会なのかなと思えるこの頃である.


静岡新聞2015(平成27)年12月21日のコラム用原稿(2015.12.7)(掲載用手直し前の元原稿)

おちゃのこサイサイサイエンス

静岡県の平地が少ないのは?  

静岡県は細長く,山地が海岸近くまでせまっていて平地が少ない.山地地形は,東部では我が国の最高峰である富士山をはじめとする火山群,中部から西部では標高3000mをこえる赤石山地とその前山でつくられている.

これらの山々の間を流れる河川は,ほとんどが天竜川,大井川,安倍川,富士川,狩野川とその支流であり,源流部から海岸までの高低差が大きいため,普段は穏やかであるが大雨のときには一気に増水する急流河川として知られており,東海道式河川とよばれることがある.

河川は,一般的に,上流の山間部から扇状地を形成して平野部にはいり,しばらく平地を流れる中流部があって,海に出る下流部で三角州をつくりながら海岸平野を発達させる.しかし,静岡県の河川には中流部をつくる平地が欠如しており,山地をでたところが海岸線に位置するため,源流部からの急流によって河口まで大きな石を含んだ土砂が運ばれる.そのため,河口付近の地形は,一般の河川からすると山地を出たところなので扇状地であるが,海岸からすれば三角州でもある.これを扇状地性三角州とよんでいる.

静岡県の平地が少ないのは,山地が海岸線に張り出していることに加えて,海岸に沿った海底地形が深いことにも関係している.駿河湾は湾奥で900m,湾口では2400mに達し,湾央を南北に溝状のトラフが延びている.このような急深な海底地形のために河川で運ばれた土砂が河口付近で平地をつくろうとしても外洋性の強い沿岸流によって削られて広がることができない.

静岡県の平野部は赤石山地から駿河トラフの間の高低差5000m以上の中腹にできたわずかな平地とみなすこともできる.このような5000m以上の高低差がわずか数10kmの距離でみられる地形は,地球上でも珍しく,ヒマラヤ山地の高低差に匹敵するものとして知られている.

道林克禎(静岡大学理学部地球科学科)


静岡新聞4月7日のコラム用原稿(2014.2.13)

サイエンスブックカフェ〜研究者の本棚〜

スノーボールアース: 生命大進化をもたらした全地球凍結 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
ガブリエル ウォーカー (著), 川上 紳一 (監修), Gabrielle Walker (原著), 渡会 圭子 (翻訳)

本書は地質学の醍醐味を存分に楽しめる科学的ノンフィクション冒険活劇である。

「全球凍結仮説」は1998年にサイエンス誌で発表されて一躍有名になった。太古の時代に地球はある期間ずっと厚い氷で覆われた雪玉地球(スノーボール・アース)だったとする仮説のインパクトは大きかった。

私は驚きながらもこの魅力的な仮説を論じる研究者たちをうらやましく思った。一体どんな人物なのだろう? どうやってこの仮説に辿り着いたのだろう?2004年に出版された本書は、私の好奇心を十分に満たしてくれた。

著者は博士号をもつサイエンスライターである。本書は教科書ではないが地質学の専門的な用語や解説も充実していて地球史も学べる内容である。全球凍結仮説の全体を把握するのは容易ではないが、それに関わる物語によって仮説の魅力と地質学の面白さを味わってもらえるだろう。 本書は11年に文庫化されて身近になった。科学に関心があり地球の成り立ちに興味を持つ全ての方に薦めたい。

中心人物はハーバード大学教授のポール・ホフマン。第1級の地質学者であると同時にオリンピック候補になれるほどのマラソンランナー。その人物像は期待以上のカリスマ性を持つ。

この地質学者は今も証拠を探しに大自然に出かけ、研究室では同僚や学生達と太古の時代に何があったのか昼夜関係なく議論しているに違いない。それは過去の地球を少しでも明らかにしようとする地質学者の日常の姿である。


全学新歓パンフ用教員紹介(2013.11.24)

新入生に一言
若さのアドバンテージは未経験であること.だから,訳もなく思い切って行動できる.後悔も多いが歩き出さなければ先はなく終わりはみえない.縁あって入学した君たちがここで立ち止まらずにでっかく悠久な地球の魅力を少しでも垣間見ることを願おう.

自分のモットー 達成は過去,挑戦は未来.上には上がいつもある.


日本地質学会第120年学術大会(2013年・仙台)巡検(I班)に参加して (2013.9.26)(2014.2.14追加) 

日本地質学会仙台大会の翌日から2013年9月17日から18日までの2日間,台風一過の快晴の下,南部北上山地の早池峰・宮守オフィオライトと母体高圧変成岩類の野外巡検に参加した.案内者は小澤(東大)・前川(大阪府立大)・石渡(東北大,地質学会会長)の三氏で,参加者は外国人5名を含めた22名だった.モンペリエ大学のアンドレアトマシ博士が参加していて驚いた.(アンドレアはこの巡検の後,静岡にも遊びに来てくれた.)担当は早池峰・宮守(小澤),母体(前川),宮沢賢治記念館(石渡)であり,巡検案内書もこの通りの分担である.

 私は,以前から小澤氏の長年の研究対象である早池峰・宮守岩体に興味があった.個性豊かで魅力的な早池峰山にも登りたかった.決心して2年前に初めて学生と早池峰・宮守岩体を訪れたが,早池峰山に河原坊から登った以外露頭が見つからず,荒天もあってほとんど巡検できなかった.昨年の夏,小澤氏による本巡検の下見に同行させてもらい,ようやく小澤論文に登場する岩石や露頭に触れることができた.本巡検ではさらに本岩体を知りたいと思って参加して,3年連続の早池峰・宮守見学となった.

 盛岡駅に午前8時に集合した後,中型バスでStop1にむかった.バスの運転手は気さくな方だったが,運転が滑らか過ぎて山道ではトラックの荷台にいるような感覚だった.Stop1は林道の奥1km地点であり,入り口でバスから降ろされ歩いて向かった.小澤氏の歩行の速さは関係者の間では有名である.ご本人から学部生(3年?)の時に歩行の速さで有名な久城郁夫指導教官から「君,なかなかやるね」と言われたくらいである(小澤,2012夏私信).小澤氏は当然先頭を歩いて行き,事情を知らない参加者とは次第に間が離れていった.しかし,今回はStop1へは直接向かわずに,林道沿い所々の露頭で立ち止まって岩石の説明をしながら後続が追いつくのを待つ配慮があり,さすが小澤さんいつもより優しいと勝手に思った.

 Stop1は早池峰山の西に位置した(Fig.1 in 小澤ほか,2013),早池峰・宮守オフィオライトで最も肥沃なレールゾライトの切り通し露頭だった.全体として蛇紋岩化作用を強く被っているが,所々に比較的新鮮なレールゾライトが残っていた.私は一所懸命たたき割ってまあまあの岩石試料を採ったつもりだったが,小澤氏からは辛口評価しかもらえなかった.Stop1では新潟大学の高澤氏が採取したレールゾライトに対して小澤氏からの評価が最も高かった.オマーンオフィオライトの調査で培った眼力が役に立ったとまんざらでない様子だった.私はちょっと悔しかった.高澤氏は懸命にハンマーを振って周囲の参加者からの要望に応えて状態の良いレールゾライト試料を細かくして配ってくれた.(高澤氏は夕方の懇親会の挨拶でStop1でほぼ当日の体力を使い果してしまったとほんのりと赤く染まった笑顔で話された.)ちなみにStop1が本巡検で採取可能な最も新鮮なカンラン岩だったことを後で知らされた.最初の露頭がメインだったのである!

 Stop2とStop3は時間の都合で省かれた.Stop4はほぼ藪になった旧道沿いのルートであった(Fig. 13 in 小澤ほか,2013).途中,昼食休憩をはさんで旧道約1kmに沿って所々に点在する露頭らしきものから岩石を観察・採取した.このルートでは蛇紋岩化したハルツバージャイトから単斜輝石普通角閃石岩さらに普通角閃石岩そして普通角閃石はんれい岩と系統的に岩相が超苦鉄質岩から苦鉄質岩に変わり,その後再びはんれい岩から普通角閃石岩そしてハルツバージャイトへと岩相が変化する様子を観察した.小澤氏は先頭をずんずんと歩きながら所々露頭で岩相を確認し,岩相が変わると皆に岩石を見せてくれた.当初は周囲の学生に指示していたが,途中でこらえきれなくなったのか岩石ハンマーを腰にセットして次第にいつもの小澤さんらしくなった.小澤さんは誰よりも先に露頭に足を踏み入れハンマーを軽々と振って露頭をガンガン割り,あっという間に手頃で状態の良い岩石を持ってきては参加者に見せて解説をした.一通りの観察を終えた終盤で小澤氏は,この系統的な岩相変化についてマントル中を水に富んだ玄武岩質マグマが貫入して反応した結果であると明快に説明された.一同,わずかな露頭からとは思えぬ明快で明確な説明に感心したというよりも圧倒された印象だった.

 Stop5は橋の下の河床露頭の観察のはずだった.しかし,前日までの台風による大雨で増水し露頭に下りられなかった.個人的に残念だったのは,増水によって河原でOzawa (1989)で報告されたような新鮮なハルツバージャイトの転石を拾えなかったことである.仕方ないので,アキアカネが飛び交う田園脇の対岸から向こう岸にわずかに視認される超苦鉄質岩の層状構造を観察した.説明を聞いて直接間近で見たかった参加者の中には,橋の近くの道路脇の法面をハンマーで削って観察・採取していたものもいた.

 午後3時過ぎにStop5から初日最後の予定であった宮沢賢治記念館に向かった.宮沢賢治記念館は石渡会長がどうしても訪れたくて今回の行程に加えられたそうである.実際,記念館には賢治によるルートマップや安山岩の肉眼スケッチと薄片組織のスケッチが展示され,地質学者としての宮沢賢治を知ることができ,宮沢賢治フリークだった私も毎回見学を楽しみにしている有意義な資料館である.また,当日は宮沢賢治記念館の駐車場から台風一過で雲一つ無い早池峰山を一望できた.個人的にはやや遠かったが3年目でやっと早池峰山の全貌を見ることができて感動した.次は晴天の早池峰に登って山頂からの展望を楽しみたいとの思いを強くした.

 実は,宮沢賢治記念館に到着する時点で,ある“事件”が起きていた.今回の巡検では参加者人数が予定よりも超過していたため伴走車が1台用意されていた.その伴走車がStop4の出だしを最後に消えてしまった“事件”である.連絡がつかずやや戸惑いながらも我々は小澤氏の案内に従って巡検を続けた.結局,最後の宮沢賢治記念館でようやく伴走車と待ち合わせできた.夕方,宿舎の花巻温泉で巡検の汗を洗い流した後の懇親会の席で, Stop4で排水口にタイヤを落としてその対応に時間をとられた旨,伴走車を運転していた石渡会長が頭をかきながら説明された.我々はその様子を酒の肴にして振り返りながらおいしく食事をした.夕食後,一部屋に集まって高圧変成岩の話をしてくれたが,私は酔っ払って寝てしまったのは残念だった.

 2日目である.温泉宿で出発前にNHKの朝ドラで大人気となった「あまちゃん」パッケージのお土産等を買った.最初に宮守のStop6に向かった.Stop6は道路脇の法面露頭で,小澤氏の説明では非常に複雑で多様な岩相の岩石がレールゾライト質の母岩に貫入を繰り返しているはずだった.しかし小澤氏が研究した当時は切り通しで状態が良かったそうであるが,その面影はわずかであった.我々は状態の良いレールゾライトをハンマーで割りながら探しつつ,それに貫入する岩相を観察した.その他,この露頭では蛇紋石断層脈が発達し蛇紋石ファイバーと断層面の斜行関係から断層の剪断センスを判別することを学んだが,単独で判別できる自信をもったとは書きがたい.

 Stop7を省いてStop8の五輪峠に向かった.ここは,ハルツバージャイトとウェールライトが交互に出現する宮守岩体の岩相区分の根拠を示す重要地点だった.しかし,露頭は正直しょぼく,それを小澤氏は間違いなく自覚していた.五輪峠の手前でバスを降り,五輪峠にむかう道路沿いの露頭のようなものを観察していった.ウェールライトにみられる単斜輝石のポイキリティック組織を肉眼で観察できたことは一同やや興奮した感じだったと思う.続いて小澤氏は白色の変質した斜方輝石によってテクトニックメンバーの変ハルツバージャイトを識別できることを示された.それから,五輪峠周辺を学部から博士課程大学院時代までの間に縦横無尽に調査したルートを赤い線で蜘蛛の巣のように描いた地形図を提示した(赤い線が宮守から盛岡駅まで続いていたのには驚いた).さらに別の地形図では,歩いたルートに沿って転石から露頭まで露出した岩石全てが鑑定して色分けされていた.これらの地形図を見せながら,この地域がマントル上部のキュムレイトメンバーと下位のテクトニックメンバーとの境界であることを解説された.ここでも一同唖然とするばかりであった.

  小澤さんと歩いているとつくづく観察の大切さを教えられる.見る目があれば露頭のしょぼさなど大した障害にはならないことを思い知らされる.外国人参加者を含めて一同小澤氏の驚異的な地質調査と研究内容に感心するばかりであった.さらに,五輪峠周辺の沢にはハルツバージャイトの捕獲岩を含んだウェールライトの転石が見つかるはずと転石調査を実施して2,3個のそれらしい転石を発見した.私は前の年の巡検では腰痛のため道路で待機せざるを得ず小澤さんから手渡された転石をながめることしかできなかった自分を情けなく思っていた.そのため今回は一所懸命沢を歩いて1個だけではあるが見つけられて嬉しかった.しかし,単独の自力で見つける自信はほとんどない.遠からず再度巡検にいこうと思う.

 五輪峠に到着して本巡検の記念写真を撮った.Stop9は省かれ,小澤氏による早池峰・宮守岩体の巡検は終了した.

 五輪峠で昼食をとった後,母体高圧変成岩に向かった.前川氏は学生当時,北海道の神居古潭帯を研究したかったのだが鳥海氏から母体変成岩の研究を指示されたそうである.露頭が少なく,1日歩いて1カ所も露頭を発見できなかったこともあったと笑いながら話してくれた.また,今回の巡検を依頼されたとき,露頭がないので無理だと思っていたが,小澤氏から露頭がない様子を見てもらえばいいと励まされたそうである.

 Stop10では,まず母体変成岩の変成岩岩石学の説明を受けた.全岩化学組成の鉄の存在度によって,アルカリ角閃石の出現範囲が支配されているそうである(間違っていたらごめんなさい).全体として露頭状況のぱっとしない母体変成岩のなかで,Stop10は枕状溶岩の構造を良く保存した角閃岩であった.ただし,巡検案内書の露頭写真(Fig.16a in 小澤ほか,2013)は,前川氏によって30年以上前に撮影されたものであることに注意されたい.現在の露頭とはかなり見かけが違っていたが,それでも枕状溶岩の構造は容易に観察できた.フランスから来たアンドレアは,パンペリー石を含んだ高圧変成岩は珍しいので教材に使えると喜んでいた.

 Stop11は採石場のはんれい岩露頭であった.ここは立派な露頭だった.ハンマーで割った岩石の見かけははんれい岩としてはかなり細粒に思えた.さらに肉眼ではこの岩石が変成岩かどうか区別できなかった.丁寧に観察すると初生鉱物の割れ目や縁に青色から紫色の多色性をもつアルカリ角閃石が見つかるそうである.

 Stop12では,ダナイトを原岩とする蛇紋岩と角閃岩が接触した露頭を観察した.角閃岩は蛇紋岩に挟まれていて,両側の蛇紋岩に向かって斜長石が減少していた.この岩相変化は1日目のStop4と同様で,小澤氏は早池峰・宮守岩体の断片と考えているそうであり面白い露頭だと思った.

 Stop13は省かれ,一ノ関駅で午後5時前に解散した.参加者の多くは特に超苦鉄質岩試料で重たくなったバックパックを背負って帰路についた.

 巡検案内書はこの岩体から数々の業績をあげてきた小澤氏による初の邦文本格巡検案内書であり,巡検案内書としての利用のほか小澤氏のほぼ全て英文の学術論文を理解するためにも貴重な邦文資料である.母体変成岩類の解説も同様で前川氏の80年代の研究を含めた現時点における総説として今後役立ちそうである.一方,案内書にある宮沢賢治記念館の解説は別の意味で面白い.石渡会長は地質学会ニュースのコラムに多くの記事を投稿されているが,本解説も負けず劣らず限られた文字数の中に賢治に対して熱く語られ,会長の声が聞こえそうである.その最後に「明日の地質学への鋭気」を養う気にさせられる一文まであり,巡検に参加されなかった方も一読したら記念館を訪れたくなるかもしれない.

 本巡検は,小澤・前川・石渡という豪華な案内者三名に惹きつけられて参加した方も少なからずいたと思うが,懇親会の挨拶で石渡会長が小澤・前川両氏に依頼して実現したと経緯を話してくれた.さらに会長は,今回は奇跡でもう二度とないだろうと本巡検企画が実現したことを喜んでいた.私も参加してよかったと心から思っている.お世話になりました.(高澤氏に本草稿を読んでいただいたことに感謝します)

小澤一仁ほか,2013, オリドビス紀-デボン紀島弧系の復元と発達過程:岩手県早池峰宮守オフィオライトと母体高圧変成岩類.地質学雑誌,119,補遺,134-153. (PDF)
Ozawa, K., 1989, Stress-induced Al-Cr zoning of spinel in deformed peridotites. Nature, 338, 141-144. (Abstract, PDF)


研究者にとっての論文十ヶ条 角皆静男北大名誉教授(消去された時に備えてサイトからの転載

  1.  「書かれた論文は書いた人の研究者としての人格を表す」。 書かれた論文からその研究者の人となり(人為)がわかってしまう。また、批判の材料にも使われる(日本人はあまり他をほめないが悪口は言う)。恐ろしい。
  2.  「データのみ出して論文を書かない者は、テクニシャンである」。 テクニシャンが重要でないといっているのではない。ただ、テクニシャンは研究者でないことを自覚し、研究者としての待遇を要求してはならない。逆に、研究者は研究者の責任を果たさねばならない。
  3.  「データも出さず、論文(原著論文)を書かない者は、評論家である」。 これも評論家が不要といっているのではない。ただ、評論家として振る舞うのではなく、研究者として振る舞い、こういう人達に研究費が流れていきがちなのが問題である。
  4.  「研究者は論文を書くことによって成長する。また、成長の糧にしなければならない」。 投稿し、審査(批判)を受けることで成長する。若い人 は没にされる率が特に高い。それで、こっそり黙って投稿する者がいる。むしろ、欧米のように、原稿ができたら、広く配り、周辺の批評を受けたいものであ る。
  5.  「論文は研究者の飯のタネである」。 就職、昇進、任期更新、賞、研究費など研究者としての資質が問われる際に第1に問題にされるのが、よい論文を多数という点である。良ければ伸び、悪ければこの社会から締め出される。
  6.  「論文は後世の研究に影響を与えなければならない」。 上で、異分野の研究者(や行政関係者)がまず取り上げるのが、審査のある雑誌に第1著 者として書いた論文の数である。雑誌の質やその後の被引用回数も取り上げられる。本当は質であり、どれだけ後世に影響を与えるかである。また、書いても消 えてしまうかもしれないが、書いておかなければ影響を与えることはない。
  7.  「研究者は書いた論文に責任を問われる」。 その当時のレベルでは不可避であったことならよいが、間違った論文を書いた責任を取らなくてはならない。作為的ではなく、未熟さ、不勉強で結果的に間違えた場合でも、信用を落とすことになる。
  8.  「忙しくて論文が書けないというのは、いいわけにはならず、能力がないといっているのと同じである」。 本当に価値あることが確実に得られて いるのなら、論文(の祖型)は一晩で書ける。書けないのは、足りない点があるからであり、書く力も能力のうちである。また。研究のため、教育に時間を割け ないこともない。
  9.  「博士論文以上の論文を書けない者は、その博士論文は指導教官のものといわれても仕方がない」。 最近は、博士の研究を論文にする際、当然の ようにその学生が第1著者となる。しかし、アイデアから始まって、いろいろな指導を受けての結果であり、その学生の真価、実力はその後でわかるということ である。
  10.  「研究において最も重要なのはアイデアであり、それが試されるのが論文である」。 実験、調査、観測が主要な分野では、体を動かすことが重 視されがちである。アイデアを尊重し、スケールの大きな研究をしたい。これには、技術的なことも含めて協力体制をつくり、資金を手当することも必要とな る。

池谷先生追悼文集 原稿(2011.12.20)

大学教員に課せられた3つの仕事

池谷先生と同じ職場で10年少々過ごしたけれども,研究室が離れていたこともあり,用事がなければ数日会わない日々が日常だった.そのため,階段をあがれば池谷研究室があって,そこに先生がいるような感覚が,今もある.

池谷先生には学生時代もお世話になった.先生は,週に何度か研究室に寝泊まりされていた.私が学部4年のある夜,いつものように某研究室で先輩や同輩達と飲んでいたときに先生がたまたま現れた.一緒に飲みながら話をしていたのだが,一人また一人と消えていき,真夜中を過ぎる頃には私ともう一人の後輩だけが先生のお相手となった.ビーカーのコップで飲みながら何を話し込んだのかもはや覚えていないが, 気づいたときは夜が明けていた.「もう寝るよ」と言って立ち上がった先生に「君たち,僕に朝まで付き合うなんて大したものだ」みたいなことを言われたことだけ,今も覚えている.きっと,そう言われてうれしかったんだと思う.

静岡大学に助手として赴任した時に池谷先生の研究室にご挨拶に伺った.そのときに受けた薫陶は,今も大学教員としての私を支えている.特に大学教員に課せられた3つの仕事として,池谷先生は「研究,教育,社会への貢献」を挙げられた.研究するのも教育するのも当たり前,でも大学教員は社会へも貢献しないとだめなのだ,との池谷流の説得力ある言葉によって,私はこれからの大学人生に向けて気を引き締めるばかりだった.そして,その言葉は今も私の心にある.

研究できているだろうか?教育できているだろうか?正直,ぼちぼちやっている自負がないわけではない.しかし,社会への貢献って一体何をすればいいのだろうか?今も模索中である.いくつか学外の仕事を受けてなんとか委員とかやっているけど,これって社会への貢献になっているのだろうか?研究成果があって新聞記事になったとき,これも社会への貢献にしていいのだろうか?とも思った.そもそも池谷先生があのとき私に言いたかった社会への貢献って具体的にどんなことだったのだろうか?肝心な部分は覚えていない.こんなことなら,もっと詳しく教えてもらっておけば良かった.仕方がないので,これからも模索しながら自分なりに3つの仕事を粛々と務めていくつもりである.

池谷先生の影響は思った以上に大きかった.ご冥福をお祈りします.


静岡時代10月号 原稿(2009.7.8)

静岡大学理学部・准教授。専門は、地質学と地球のレオロジー。最近は、潜水艇「しんかい6500」に乗船して六千五百メートルの海底を調査している。海は広くて大きく、そして深く、知らないことが多いと実感せざるを得ない日々。夢は、世界最深の海であるチャレンジャー海淵(水深十一キロメートル)に到達すること。

いろいろな旅

私たちが住んでいる惑星「地球」は、水惑星である。一般に、惑星の表面温度は、太陽からの熱量と大気の温室効果によって決まる。現在の地球の平均表面気温は約一五度と見積もられている。そのため、地球上でエイチ・ツー・オーは水として存在する。この水が、地球を他の惑星では決して真似できない「奇跡」として、生命の星にした。十分な水と環境を得た惑星は、四十六億年の間に多種多様の生命を育んできた。そして、私たちはここにいる。そればかりでなく、私たちは、この星に生まれて、この星から授けられた頭脳をもって、母なる惑星「地球」を知ろうとしている。この知的探求は、ある意味冒険であり、「旅」なのかもしれない。

私が最初にした旅は、二十歳の冬だった。宮沢賢治が好きだったので、花巻に行こうと決心して翌日電車に乗った。いくつか乗り継いで花巻駅に降り立った時は、夕暮れだった。おぼろげな記憶ながら小雪が舞っていたと思う。バスに揺られて花巻温泉に一泊したのだが、急いで選んだ宿は学生には高すぎた。翌日、徒歩で宮沢賢治ゆかりの地を訪れた後、昼過ぎに帰りの電車に乗った。乗車券を買ったら、一回分の弁当代しか残らなかった。中間地点付近で買った最初で最後の駅弁を、できるだけゆっくりと長く味わう以外は、もう何もすることがなかった。眠れず、ただ外を眺めて過ごした。陽が落ちた後は、車窓に映る自分自身を時おり見ながら、電車がレールを乗り越える音だけをひたすら聞いていた。

今から振り返ると、計画性もなく、やることもなく、無駄に長い時間をかけた旅だった。しかし、川に氷が絶えず流れ、雪景色の中、張りつめたような寒さと静寂さで凛とした花巻の印象は、二十年経った今も鮮明である。あの頃の場当たり的な旅には、何がおこるのかわからないスリルがあった。この頃は、仕事絡みの計画的な旅に終始している。

学生時代の旅とは、今の私にはできない時間をたっぷりと無駄に使う贅沢なものだと思う。旅には、日常にはない新しい出来事に遭遇できる雰囲気があって楽しい。おすすめである。ただし、日常の中にも、たくさんの知らないことがある。例えば、道ばたの小石は、数百万年から数億年を経て、そこに存在する。私は、そうした小石の「旅」を生業として見つけている。いろいろな旅である。


西上原 航さんの追悼文(2009.4.7)

いつから知り合いになったのか
覚えていません

長身をやや猫背気味にして
目を細めた笑顔が印象的でした
あれは無精ひげだったのでしょうか?

2008年5月
地球惑星連合大会のとき
1階入り口付近で田阪さんと3人で立ち話をしましたね
現在進めている研究を論文にする話でした
君の話を聞きながら
3編くらいになるように思えた
そう話した時のうれしそうな顔が忘れられません
歯並びの微妙さがより爽やかにさせていたような笑顔が忘れられません

2008年9月末
鳥海先生の集中講義に合わせて
静岡大学にガーネットの結晶方位の測定にきてくれましたね
近い将来に君の博士研究の一部として
おもしろい成果が論文になることを楽しみにしていました

私の研究室の卒業生の田阪さんをずっと応援してくれてありがとう
彼女のフィールドで,かんらん岩をとってくれてありがとう
彼女の下手な英文を直してくれてありがとう
色んな機会に相手をしてくれてありがとう

まさかこんな人生になるとは予想できなかったでしょう
大学院生3名を連れて,参列しました
最後に君の顔を見たかったから
あのひとが君の奥さんだと知ってびっくりしました
学位を取得した後で2重に祝福したかった
またあの照れ笑いに会いたかった
本当に残念です

どうか安らかに
君が情熱をかけた地質学を少しでも発展させられるように
私たちは研究を続けていきます
それが研究仲間としてできる一番の供養と信じて

2009年4月7日(火)
研究室にて


全学新歓パンフ「飛翔」用教員紹介(2006.11.14)

新入生に一言
君たちは,太陽を何色で描きますか?赤色それとも黄色?私の娘は4歳児の時,太陽を青色・オレンジ色・緑色で彩りました.それは私の研究室に飾ってあります.しかし,小学校入学後に描く太陽は,残念なことに私たちになじみのある色のみでした.知識とは,おぼえた内容そのものではなく,自らの価値判断のために参考となるものです.あなたが想い描く太陽があなた色に輝くように,大学で知識を学んで欲しいです.

自分のモットー
物事を成すために最も大切なのは自分自身の心構え.人生に流されていくのではない,自ら進んでいく.だから若い学生達をうらやましいとは思っていない.あのころ,私は楽しんだ,そして,今も楽しんでいる.


第5回地球システム・地球進化ニューイ ヤースクー ル・IODP乗船体験記寄稿(2006.11.13)

乗船航海名:IODP EXP305,Ocean Core Complex Formation, Atlantis Massif
乗船期間:2005年1月7日〜3月2日
乗船時の身分:Structural Geologist
乗船中の役割:掘削コアの脆性変形構造を記載すること
乗船中及びその前後に於ける研究:オマーンオフィオライトのマントルかんらん岩の構造解析.

船上生活:「船に弱い」自覚があったので,乗船する日はとっても緊張していた.ジョイデスレゾルーション号はドライシップなので,乗船直前にカフェでビールを楽しんでいた仲間を尻目に,自分はプレッシャーからコーヒーを注文してしまった.どうしてビールを飲まなかったのだろう?今から思うと,とても不思議.

出航後,掘削地点まで約1週間低気圧でうねる大西洋を航海した.予想通り,船酔いでまったく元気が出ず,苦しんだ.そのときに同じく構造地質学者として乗船したスペイン人のハビエ・エスカルティンが「甲板で外気を触れながらクッキーを食べるといいんだ」って笑顔で励ましてくれた.彼とはそれ以来,ずっと仲良い友達.ほかにも色んな研究者(と研究者の卵)と知り合いになった.昨年のAGUのアイスブレイクではまるで同窓会のような雰囲気で愉快だった.約2年経って,主席研究者だったドナ・ブラックマンが自分の研究分野におけるビッグネームだったことを知り驚いた(と同時に自分の無知が恥ずかしかった).そんな彼女の最近のレビュー論文に,数年前に日本語で書いた小論文の図が引用されたことは,やはり偶然ではないのだろうなと思う.

下船した後で大学院生からポスドクの頃のように楽しく意欲的に研究に取り組めたのは,船酔いで苦しかった2ヶ月間だったけど研究者として研鑽した2ヶ月間であったからだと思う.これを契機として,自分の研究の方向性が良い意味で変化したのは間違いない.こんなわけでIODPに参加してよかったと心から思えます.


ニュージーランド訪問記(回想鮫島輝彦先生より,1992年12月)

「ニュージーランドに来るなら3月か4月が天気も安定してよいでしょう.」

約8ヶ月にわたる北アメリカでの生活を終え,30年ぶりという大雨の続くタウンズビルに落ち着いた頃,1枚の絵葉書を受け取った.91年1月である.

 約1ヶ月後,思いがけずオークランド行きの航空券が格安となった.オーストラリアのカンタス航空がタウンスビルへの運航に見切りをつけて立ち退くことを決定したため,その直前の3月22日までにオークランドから戻ってくる券がほぼ半額まで下がったのである.壁に飾ってある絵葉書によれば3月は旅行に最適の季節らしい.隣の研究室のオークランド大学出身の友達も太鼓判を押してくれた.もうこれは実行する他はない.早速3月1日タウンスビル発そして同22日着の券を予約してしまった.細かい日程はキャンプ用具一式持参していけば特別決めることもない.その時その時の気分次第で十分である.とりあえず鮫島家に2,3日居候させてもらう間に計画を立てようと勝手に決めたのであった.

 さて計画が決まったので,鮫島家に来訪を連絡せねばならない.出発まで僅か5日しかないにもかかわらず,なにを思ったのか私はタウンスビルの絵葉書を取り出し,この旅行について書き始めたのであった.NZまで届くのに最低1週間かかるというのに.投函して直ちに不安になったのは当然であろう.この時は,もう少し賢くオークランド大学宛にファクシミリの手紙を送ったのであった.先生が不在の場合を考慮して,テリーに伝えてくれとのメモも忘れなかった.

 鮫島先生は私の訪問を知ったのだろうか,とオークランド空港でまず思った.とにかく電話してみようと電話帳をめくると「Sameshima」が一つだけある.嬉しくなってきたことを覚えている.電話には娘さんが対応してくれた.空港に向かっているとのこと,やれやれ一安心である.それにしても彼女が私の下手な英語からたちどころに「日本の方ですか?」と流ちょうな英語から澄んだ日本語に切り替えてきたのには感心した.私は過去10ヶ月間全く日本語を話さなかったため,書くことは出来るが話せなくなってしまっていた.英語もたどたどしく思うようにならないのに,日本語まで話せなくなってしまったらどうしよう.そんなことをボーと考えていたとき,一人の日本人らしき女性が近づいてきた.どこかで会ったことがあるとしげしげ見つめていると私をこれまたじっと見ている.そして,「よく来たわね.」テツ子さんだった.「どうも」,しどろもどろで挨拶した.先生は車のところで待っていてくれた.息子さんも一緒であった.

 鮫島宅に向かう道中で話をしたのだが,私の日本語は非常に聞きにくかったにちがいない.「英語で喋ってもいいわよ」と言われても英語も下手なんだからどうしようもない.かつて(ほんの10ヶ月前まで)饒舌で名の通っていた私らしからぬものがあって奇妙な体験ではあったが,2,3日すると元に戻ってしまった.以来,2度とこのようになることはない.

 「食べたいもの,何かある?」との問いに「魚料理をお願いします」と答えたのは,正直なところである.タウンスビルでは新鮮な魚を見つけにくい.さらに魚介類はNZから輸入されるのである.NZ周辺の魚は日本のものよりもおいしい,と話すテツ子さんに,私は期待せずにはいられなかった.オーストラリアに留学して以来,完全に食生活が洋風になっていた私にとって,鮫島家の料理の数々は幸せな思い出の一つである.どんなに旨い牛肉も,日本食のだしのきいた味わいには勝らない,と今でも思う.西欧での日本食ブームは,理由あってのことなのだ.

      *             *

 テツ子さんの手料理を賞味したのはこの時が初めてではない.静大4年の当時NHKで毎週「地球大紀行」が放映されていた.これにかこつけて“教官宅で「地球大紀行」を見よう”という企画を立て,毎週5,6人で教官宅に押しかけたことがある.我々の訪問を告げる場合と告げない場合があった.大谷の職員住宅の最上階に位置していた鮫島仮宅を訪ねた時は後者であった.目指す建物を見つけ,さあ階段を上がろうとした時,丁度先生とテツ子さんが車で到着した.東京から戻ったところであった.にもかかわらず,我々はゾロゾロと後をついて上がって行った.

 東京から始終運転してきた直後,学生の突然の訪問に会い,さらに一緒に「地球大紀行」を見,その解説までしてくれた.今から思うと恐縮してしまう.その上,テーブルにだされた菓子類をむさぼり食べていた我々を見て,テツ子さんは即席で五目御飯を炊いてくれたのだった.その日ろくなものを食べていなかった私は,急ぎすぎて芯が残った五目御飯をお茶漬けにしていただいたのであった.「大失敗」と言われたが,素晴らしいご馳走であった.「また来たら今度はもっとまともなものをあげるわ」と言われたものの直接の指導教官ではないという立場上,直接指導を受けている学生諸氏に遠慮してほんの数回しかお邪魔しなかった.先生の“退官記念パーティー”の時も「忙しい時期が過ぎたから,いつでも来ていいわよ」との大変ありがたい申し出をいただいたが,その後は一度も訪れる機会はなかった.(ちなみに直接の指導教官であった当時助手の増田先生宅には,直接の学生である立場を最大限生かして,仕送りを使い果たした月末などよくお世話になったものである.)

     *               *

 小高い丘の上にある白い家の玄関に,「鮫島輝彦」と墨で書かれた表札があった.そのうち畑をおこして野菜を作るのだという裏庭は,日当たりもよくそして芝は青かった.小さな平屋が別にあり,その一部屋を客の寝室に,もう一部屋は先生の書斎となっていて,壁には書籍類が埋まっていた.

 NZ生活の長い先生から,海外にいて日本の情報を得る方法を教えていただいた.国内での日常のささいなニュースなどは,政治関係のものを除けばまず知ることなど不可能である.まあ知る必要もほとんどないのだが.先生は短波の日本語放送を聴くことを勧めてくれた.一日に何度か日本語のニュースがあるから,それで充分国内のことがわかる,ただしその他の時間は下手な英語放送だから聴かない方がよい,聴いていると自分の英語も下手になる,と笑われた.確かに「ジス,イズ,レイディオジャパーン,トーキョー,ジャパーン」などという英語には苦笑してしまったが,聴きなれるとそのあまりの日本語調の英語にむしろ親近感をもった.嬉しいことには日本語放送の時間内で相撲の生中継もあるという.私にはこれが一番の目的であったが,先生にとって日本語放送を聴くことは地震や火山の噴火についての情報を得ることも大きな目的としてあったようである.火山の噴火のような比較的大きなニュースは,一日だけでなく一週間くらい続けて報道されるから聴き逃すことはまずないとのことであった.ちなみに静岡第一ビルのガス爆発事故もすぐに知ったと話してくれた.

 わずか2,3日の滞在であったが,久しぶりの日本語での会話は新鮮であった.参考になる話も少なくなかった.特に印象に残っているのは,日本語の喪失についてである.日本人家族の子供は,外国で長く暮らすと日本語を完全に忘れて話せなくなってしまうことが多いとのこと.これは中国人家族の子供と対照的であり,要はしつけの問題である.また,NZ人と結婚した女性は3年もすると日本語を話せなくなってしまう例については,最初驚いたが自分の経験を合わせるとあり得ることであると納得できる.日本ではあらゆるものが日本語を媒介として使われているから,維持できるのである.日本語の知識は日本を離れると無力でかつ無防備である.日本人観光客の行かないような場所に住めば,ほとんど聞くことも見ることもなくなる.本人が努力しなければ忘れてしまうのも当然なのである.この時から,私自身の日本語についての考え方が変わってきていると思う.最近は日本語の持つ響き,表現を考えてやまない.研究論文には向かないかもしれないが,言葉として非常に美しいものを持っていると勝手に自惚れている.

 その後約2週間南島を旅行した.NZの風景はどこもみなのどかであった.初めて見た氷河の雄大さに感動した.マウントクックが富士山のような成層火山ではなく山脈の一部分であることにちょっとだけがっかりした.ロトルアの温泉を思い出すと今でも体がほぐれてくるような気がする.日本と異なり共同温泉プールでは水着で入る.四角に仕切られたプールの湯温は順々に熱くなっていく.私には二番目に熱いプールが湯加減もほどほどであった.旅行自体はかなり忙しいものだったが,総じて楽しむことができた.

 約2週間の南島への旅行を終え,もう一度オークランドの鮫島宅に戻った.翌日オーストラリアに戻る前にもっと先生と話をしたかった.しかし,何を話せばよいのか分からなかった.静大の頃のように無我夢中で話をした.何でもよいから頭のなかに会話を刻み込もうとした.

 空港まで夫婦で見送ってくれた.別れの挨拶をしたとき,やや躊躇気味に「タウンスビルに遊びに行くから」と言われた.「やっぱりそのぐらいの元気がなくっちゃ」と横でテツ子さんが笑われた.ぎゅっと固い握手をしたかったが,実際はそれほどでもなかったと思う.また会える機会があるとその時おもったけれども,結局もう一度ニュージーランドに行くことはできなかった.しかし,それについては特別な後悔はしていない.先生に何度お会いしたかは問題ではない,その影響力はたった一度だけでも充分だったのだから.


きみらは            みちばやしかつよし

火山をやっている
との紹介があった

40代になって
ニュージーランド移住を決意
そして実行された
と知った

仕送りを早々に遣い込み
金がないから飯を食わせろと勝手なことをいった時
家内に電話するからちょっとまて
と返事された

飯を食べながら
きみらは大きな子供だ
ニュージーランドの学生はもっと自立している
とよく説教された

田舎育ちの方が
のびのびしていてよかろう
と笑われた

聞くこと全てが真新しく思えた
と同時に多少なりとも反感もあった
大きな子供でもやれないことはない
と信じた

初めての留学試験の結果に
呆れた顔をされた

タウンスビルの大学は小さくて
しかも非常に暑かった
と話してくれた

留学が決まったとき
一緒にグレートバリアリーフにいって大いに遊ぼう
との祝いの手紙をもらった

*    *

遊びに来るなら
2月か3月がよい
との絵葉書をもらった

娘さんの湯呑みで
お茶を
とても嬉しそうに飲んでいた

南の空は北よりも星でいっぱいだ
と語ってくれた

短波ラジオがあれば
日本語放送も聴けるし相撲の生中継もある
と教えてくれた

これからマッキントッシュに乗り換えるのだ
と言っていた

今回は南島中心だったが
北島も見どころはたくさんあるから
また遊びに来るがよい
と勧めてくれた

オーストラリアで会おう
と握手して別れた

*    *

年末にクリスマスカードを送った
返事は医者の診断で埋まっていた
来年の活躍を期待する言葉があった
息が詰まるのを感じた

そして,8月

ファックスが届いた

研究室から見上げた
タウンスビルの空は
いつものように
青く澄み渡っていた

先生に出会えた
この偶然に
感謝せずにはいられない

目が細まった
あの笑顔を
今も鮮やかに思い出す

これからも,きっと

(at Townsville, 5 December 1992)


When I was young, I knew almost nothing but my own world.
When I was young, it appears that I would be a poet or writer.
So, I liked making poems and some writings.
These are some written by myself, when I was such.
My writings were very selfish as I was.
However,
they may be the origin of my career as I am at present.

(1984.11.27)

すべてが寝静まる頃に

すべてが寝静まる頃に
それは生まれる
そこでは
私だけが存在し
私だけが真実である
やっとあたりを照らし出す電燈が
すべてを見せる光を放つ
すべてが寝静まる頃に
それは生まれる
そこにいる限り
どんなものよりも私は優れ
あらゆるものが私の思い通りである

けれど
外界の光が
少しずつ侵入を始めるとき
すべては夢へと消えていく


十夢想夜


 僕は夜中にあれやこれやと考えるのが大好きである。そこには誰かに話して聞かせたら、きっと驚いたり、うらやましがられたりするだろうと思えるようなたくさんの素的なアイデアが浮かんでは消え、消えては浮かぶ。
しかし、こんなふうにも思えるのである。もし口に出したら、それはその新鮮さを失い、とるに足らないものになってしまうのだと。


冬の夜空には

冬の夜空は
どこか張りつめた
どこか冷たい
そんな気がする
だけど
じっとあおいでいると
体を冷やすのは
大気で
その寒気に隠れた
透き通るような星の光がある

十夢想夜


 僕の故郷は山に囲まれた田舎である。そのため、空の広さも大したことはない。
しかし、限られた空間であっても地上の人工的な光に妨げられることなく星を見ることができる。そうして見ることのできる星の輝きは、僕でなくてもいいもんだと思うことだろう。そして、そうした星星がところせましと散らばった冬の夜空は本当に自然が創作した最高傑作のひとつであろうと僕が言っても否定する人はいないと思う。


塵 外

深夜と呼べなくなる頃まで起きている
こんな時、自分が最も偉く思えてくる
あらゆるものは闇に消えている音もない静寂の世界
あの威厳に満ちた太陽の姿は、もちろんどこにもいない
電燈が照らし出す世界
それがすべて
支配者は自分−つまり、私
この世界にいる限り、
私はどんなものよりも優れる万能の支配者たる
あらゆるものが自分の思い通りになると信じる
夜明け
電燈が朝陽に溶け込む時、世界は消える


無題

夜は必ずめぐってくる
一日のうちに闇に閉ざされる時間が
あるのは、寝てしまう為ばかりではない
人にじっくり考えさせる機会も与える
例えば、僕のようにくだらない詞を
書かせる
白昼読もうとしても直視できない
そんな詞を僕に書かせる


はたちの詩

夢を描き,想い,憧れた歳月は過ぎていきました
いかないでほしいと願っても
通り過ぎていく時間は,一見とても非情です
けれども時間が止まることができたら
自分が子供であったことを思うのも
今の自分を見つめることもないでしょう
二度とその時が戻らないから
時には,なぜああしなかったのかと自分を悔いたり
時には,あんなこともあったんだとなつかしみ
時には,あの頃の自分にあきれかえる
だからおもしろい
似ることはあっても同じことはない
だから人生っておもしろい

歳月は過ぎ去っていこうとも
自分を
絶対に他人になることはない自分を見つめ
夢を夢で終わることのないように行動するときが
いま,やってきました
ぼくは,はたちになりました

弦音(静岡大学弓道部1985年冊子)


おまえならいけるさ トム
誰よりも遠くへ
地平線のかなたでまってる
すばらしい冒険が
そうさつらい時も顔を空にむけろ
忘れた夢が見えるよ
自由なけものみたいに走ろうよ

おれたちの胸には トム
流れてる ミシシッピー
のんびりと陽気に力強く
おれたちも歩こうよ
そうさ男の子はまわり道をしても
夢の国へつけばいい
重たいくつなどぬいで生きようよ

もう何年になるだろう テレビで「トム・ソーヤーの冒険」というアニメが放映されたことがあった。原作はマーク・トウェイン。おそらく知らない人はいないであろう。僕自身,何度となく読み返す大好きな本なのであるが,その時の主題歌が上のものである。僕は,この歌詞ほどすばらしいと思ったことはそれまで一度もありません。いいなぁと思う歌はありましたが,本当にすばらしいものはこれだけだと思います。いまのすべての子供たちが,みんなこんな気持ちをもっていたらどんなにすばらしいだろうといつもいつも思います。ちょっとキザですが,落ち込んでいる子供がいたらこの歌をトムのかわりにその子の名前にして聞かしてあげたいと思っています。

それに人間なんていつまでたっても子供だと,なにかすがるものなしではいられない弱いものだといつも思わずにいられないのです

1984年6月15日
弦音(静岡大学弓道部1984年冊子)