COSMOS『1984 駒場卒論号』(東大 地文研究会 天文部, 1984年10月26日発行)p45--50

道草

                                              沼口 敦


突然開けた光景に思わず立ちすくんでしまう。あたりを見廻すとそこは何気ない風
景。でもそんな中にふとなつかしさを感じるのは何故なのだろうか。時の流れが一瞬
止まったかのようだ。が、道端にすわり空をみれば、土のリズムが伝わってくる。そ
して時がまた違ったはやさできざまれてゆく。陽光。微風。細流。

そこに道があるのがうれしい。

何気なくつぶやいたそんな言葉が、今の僕の気持ちを何よりも良く表しているよう
な気がした。なんとはなしに迷いこんで、思わぬものに出会った道。道なき道を進ん
だあげくに開けた道。それでなくともハイキングコースの山道でも下町の入り組んだ
街路でも、通いなれた通学路でも、そんな道があるのがうれしい。

だからそこを歩きたくなる。走るのではない。まして車で一瞬のうちに駆け抜ける
こともない。道には道の表情がある。その表情を感じてゆきたいと思う。そして僕は
旅に出る。


最近旅を強く意識するようになった。旅、だが、旅とはいったい何なのだろうかと
改めて問いかけてみる。まずひとつ思いつくのは、僕の場合、それは歩くことに他な
らないということである。そして、僕の求めるものは歩くことによってはじめて得ら
れるのではないかという観念がまとわりついて離れない。それはまた、旅することに
よって生まれる様々の出会いである。旅=出会いという図式は多くの人に共通すると
ころだと思う。未知なるものへの出会いへの憧れは我々を旅にいざなうに足りる。し
かし、それだけのことだろうか。歩くとき、旅をするとき自分の中にあるのは何だろ
う。自然との一体感、自分の生。旅によって生き、生かされているのだと、そんな思
い。そしてよろこび。それからおのずと次の答えが明らかになろう。旅とは、つまり、
自己表現である。


おそらく自己表現の欲求というものは、人間の人間たる由縁をかたちづくる主要な
要素なのだろう。遠い過去から続くその証を普き芸術の世界にみることができるし、
知的活動というのもあるいはそこに端を発しているのかもしれない。そして僕にとっ
て自己表現の手段として大きな位置を占めているのが旅なのであり、旅それ自体が自
己表現となってきているのだと考える。古の旅人にしても、たとえば芭蕉を考えてみ
れば、彼の「おくのほそ道」に代表されるようなたびは、強烈な自己表現であること
をうかがわせる。旅と芸術もまたそういう面において深く結びついているのだろう。

ところが、自己表現はまた、社会の抑圧からの解放をも意味する。そういう面から
は旅はあるいは逃避なのかもしれない。だが、大部分の人にとってその逃避はいつか
は帰るべき旅路である。人は帰りたいから、帰りたいところを求めて旅に出るのだ
とは,森敦氏の言である。旅する人はだれもが自分の帰るべきところを探しているの
だろう。少なくとも魂の帰るところを。そしておそらく、逃避の中で現実に執着して
いる自分を見つける。そんな中にひそむ一片のあこがれが旅を喚起してやまない。理
想、無限、永遠、それらを求めて遠いところへ夢を飛ばす。あるいはその裏返しとし
てもののあはれに心を一にする。そして、遠くへ行きたいと。その一方で、また、そ
こに身近な世界への愛着が生まれる。自分の周りの世界に心動かされて生きてゆける
ことはなんてすばらしいことだろうか。身近なところには旅情は感じられぬというか
もしれない。だが、まずは足元を見失ってはならないと思うのだ。何より、自分の世
界を愛するのなら。

理想と現実。そんな言葉だけで問題を片づけたくない。が、おそらくはその間で揺
れ動いているのが本音だろう。そして、だからこそ今は旅を続けたいと思うのであ
る。


道を歩く。目にとびこんでくるのはアスファルトや土、石や水たまりだけではな
い。むしろ道端の草花、樹、田畑、流れ、むこうの山々あるいは家並、そういったも
のが目をとらえてはなさない。そんなものたちの声が聴こえ、感じられるような気が
する。そしてそれを、またそれを通して"観る"。道はそういった"自然"に接する
ときの入り口である。自然と自分の間をつなぐもの、それはひとつの"境界領域"だ
ともいえるだろう。そんな境界領域的なものへの志向が僕の中にある。人の生活のに
おいのする自然が好きである。人里、雑木林、田畑、川、そして道。道には自然の中
に生きる人間の営みが息づいている。生活のあしあとであり、希望につながるもので
あり、何よりもその生活の基盤である。

本来そのような性格を持つべき道であるが、この現代においてはあるところでは自
然破壊の象徴となっている。スーパー林道といったものに反対する声も高く、そう
いった破壊的な人為が感じられるような交通機能本位だけの道も少なくない。そして
都会はというと、道は車であふれかえり、慢性の交通渋滞。そんな道はまったく現代
の象徴に似つかわしいといえなくもない。"合理的"とかいうが、それが本当に理に
かなったものなのだろうか。自然への介入がもっとも甚だしいのは川においてだろ
う。どんな山奥にもその水の道には巨大な建造物が立ちふさがっている。そして、エ
ネルギー社会は更に環境を広範囲で汚染していった。

 もちろん、そんな自然への人間の介入を全て否定するわけにはいかない。それは、
人間として生きることを否定するようなものであるから。どんな原始の状態であれ、
人間の外へ向かった動きは自然を変えないではいられない。また、変えることが全て
好ましくないことだというわけではもちろんない。この自然、この地球環境にしても
生物によって変えられ、作られてきたのである。Gaiaの考えを借りるなら、生物に
よって生物に好都合なように環境が維持されているのである。ならば更に人間が入る
ことによってもう一歩進んだ安定状態へ達することの可能性が秘められているように
思ってもよいだろう。

原始のままの自然は、荒涼、殺伐、雑然としたものであることが多い。また、地
震、雷、火事、噴火、台風、風雪、波浪、山崩、洪水といった自然災害、温和なだけ
でない気候、決して人の住みやすい環境ではない。人間を拒み、相容れようとしない
自然が多くを占めているだろう。そういう自然を人間は住めるようにする。それは自
然系を大きく変えない限り、また、聖域をおかさない限りは人間の活力を感じさせら
れる、認められるべき行為だろう。自然を愛し、それと共生する。そういった人の生
活のにおいのする自然には原始の自然にはない違った美がある。そして、意識するに
しろしないにしろ、人々の守ろうという自然はこんな自然であることが多い。それは
おそらく原始の状態よりも人間にとってより自然なものだからだろう。

しかし、現状はどうだろう。はたして人の住みやすい環境なのだろうか。本当に人
がすみやすいのなら、ほかの動植物もまた等しく住みやすいものでなくてはならない
だろう。現代のエネルギー社会は目先の便利さに目を奪われて、あまりに安易にしか
も巨大に自然を変え過ぎてはいないだろうか。自然のもつ平衡への回復力はくずれ、
不可逆的な塑性変形を起こしてはいまいか。そして、科学はそれに贖罪できるのか。
可能性については楽観的でありたい。しかして現状はまだまだ遠い気がする。

地球環境はいま危険な状態にある。それをだまってみているわけにはいかない。そ
のためにも自分の中で自然について問うてみることが必要不可欠のように思われる。
そしてそれと接することが。


だいぶ横道にそれてしまった。しかしあえて戻ることもなかろう。旅とはそんなもの
である。「武蔵野を散歩する人は道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足
の向く方へゆけば必ずそこに見るべく聞くべく感ずべき獲物がある」という独歩の一
節に共感をおぼえる。ただ、そこにはある種の甘えがある。自然の、人々の寛容さに
甘えることでそういった気ままな行為が成り立つ。そしてそういった甘えは限度を越
えれば現代科学社会が自然に対して行ったような取り返しのつかない状態にいたる危
険性をまたはらんでいる。しかし、甘えを完全に否定し去ることはできない。お互い
に甘えることによって生きている。だからこそ、それらを大切にしなければならない
と思うのであろう。

そして、道といえば、人生の道といったような道もある。だが、それについて語る
には僕には荷が重すぎる。恐らく「人生は旅」という言い尽くされた言葉以上のこと
は何もいえないだろう。ひとついえること、それは僕も今まさに境界領域に立ってい
るということ。いや、それよりは中途半端な、しかも不安定な状態は必ずしも否定さ
れるべきものではないと思うようになった。考えてみれば地文研というところも多分
にそういうところがあるのかもしれない。そして、そういった方向に道は続いている
ような気がする。


いろいろとうそぶいてみてもそんな考えと、現実の自分との間にはまだ多くの
ギャップがある。そこには自分のまだ未知の部分もあれば、不完全で中途半端な面か
らくるものもあるだろう。そう、道は未知に通ずる。   


どうも今日のところはこれ以上進めない様だ。ここで一休みして最後の問いかけを
してみたい。


そんな中で、星をみるということは?

あるいは遠いもの、無限なるものへの憧れかもしれぬ、また変わらぬ自然への畏敬
かもしれぬ。僕がひかれるのは、個々の星々というよりもこの星空に対してという面
が大きい。一面にひろがる星空の下に立つとき、また大地に寝転がって星の光を受け
るとき、不思議な虚脱感と一体感、そして自然の崇高さを感じ、心がすいこまれる。
また、時にはそれがおそろしく感じられることもある。そしてどうしようもなく引き
付けられてしまう。それはおそらく大樹の下に立ったときに似ている。川のほとりに
たたずむときや山の上から山すそや村々を見下ろしたときのような心休まるなごやか
さとは別のものである。それよりもっとはりつめた、隙のない雰囲気がそこにはあ
る。そこへ流れる一筋の流星、それはその緊張した空間に一打を加え、新鮮な感動と
清涼感を与え、落ち着いた、静かな余韻を残す。それはまさに樹から鳥の鳴き声が、
また飛び立つ羽音が聴こえてきたときのようである。そのとき、自然と一つになれる
ような気がする。そして星空をさ迷い歩く。では惑星の方はというと、こちらはそれ
とはだいぶ趣が異なる。毎日通る道端に、不思議と気にかかるものがある。それに
「やぁ!」と声をかけ、その顔色をうかがう。いってみればそんなものだと思ってい
る。

こんな星空にいつまでも残っていてほしい。そういう自然に。そして、星空をみる
とき、自然というものをどこかで意識せざるを得ない。

そして、朝、星々がひとつひとつ空似消えてゆき白々と明けてゆくのは何ともいえ
ず素晴らしい。そのなごりを惜しみながら、朝がやってくる。そして朝陽が。

星空は宇宙の道であって、朝に続いている。ふとそう思ってみたりする。星空をみ
ることもまたまぎれもない自己表現に違いない。そしてそれは即ち旅。いや、それよ
りも旅も含め、そんな僕の想い全体が自分にとっての天体だといえるのではないだろ
うか。そんな考えがいま頭をかすめた。



あとがきという名のうめくさ

卒論というものにはかなりの思い入れがありました。いろいろ考えあぐねた末、こ
の機会を利用して自分の中に渦巻くさまざまな想いというものをまとめて形にしてみ
ようと思いたちました。しかし,それはなかなか、いや全然進みませんでした。

もう十月半ば、山では樹々が鮮やかに色づいていることでしょう。そして鶴君は言
います「卒論出してよぉー」。まったく若葉の頃から時間はたっぷりあったはずなの
に(地物がヒマだということを認めている訳ではありません)、今ごろ試験中のどさ
くさの中で書いているなんて。いやはや。

結局このような始末です。どうも肩に力がはいりすぎたみたいで、また書こうとし
て書けなかったことも多くて。

でも、それが僕なのかもしれません。

ひとつ収穫といえば、自分の中での問題提起が不完全ながらもできたことでしょう
か。

ともかくこれで筆を置きたいと思います。明日からまたどこかへ行くでしょう。
... そして ....

最後に編集の皆様に大変ご迷惑をおかけしたことをお詫びします。

                                                          84/10/17 沼尻熱塩