これは、乱雑な思索の過程の断片です。心にひっかかる何かがあれば、いっしょに考えてみてください。


9/Aug/1999

 地球科学の日々の研究の営みは、個々の技術的な作業の連続である。つまり、式を変形したり、プログラムを作ったり、はんだ付けをしたり、等など。そして、その結果得られる出力は、地球に関する個別的な情報である。個別の情報は一遍の論文として形となって、膨大な地球に関する知識の一片となる。

 一方で、地球は「縫い目のない一つのシステム」である。したがって、地球に関する個別の知識をどんなにたくさん並べても、それで地球が分かったという気はしない。ここに地球科学のジレンマがある。

 個別の情報は、ある思想のもとに位置づけられ、統合されて「地球観」あるいは「地球史観」となってはじめて、「地球が分かりつつある」という気にさせるものになる。

 情報の集積が新しい思想を芽生えさせ、新しい思想が新しい情報収集を促す。一方で、ある時代に必要とされる思想は、その時代の社会の課題意識と共鳴するものである。膨大な知識に導かれて膨大に芽生える新しい思想の中から、新しい社会の課題意識を刺激し、刺激されるフィードバック関係に入ったものが、新しい地球観として成長する。

 (これは生物の進化の過程とよく似ている。生物は突然変異や性による遺伝子組み換えおよび細胞内共生によって、膨大な数の新しい形質を試す。その中から環境の変化に対応できるごく少数のものが選ばれ、新しい生物の形として定着する。)

 これまで、地球科学が刺激した社会の課題意識の一つのパターンは、「新しいフロンティアをめざせ」であった。プレートテクトニクスは海底という未踏の領域をめざした。惑星探査の科学は今でも地球以外の惑星という未踏の領域をめざすことで、人々の心をとらえている。

 これは大航海時代のヨーロッパの冒険的・探検的地理学の系譜につながると思われる。当時はヨーロッパ人にとっての未知の大陸の「発見」とともに未知の生き物を発見することが主要な問題意識だったと思われる。今でも火星に生命の痕跡を探ることが、火星探査の主要な問題意識の一つとなっている。

 


10/Aug/1999

"Art does not reproduce the visible, it makes visible."-- Paul Klee

 われわれはクレーの絵を見てはじめて、「色」というものがおもしろくて美しいと感じる感性をもつ。それまで目には映っていたはずであるのに、ちっとも気にかけていなかった日常の光景が、「色」に満ちあふれた不思議な空間であることに気づく。そのことによって、われわれの心が耕される。

 クレーはここで、美術について語っているのであるが、artを学問と読んでもこれはそのまま真実である。


 1970年代以降、地球上にはフロンティアは消滅した。海底も極域もヒマラヤも、「征服」された。地球は粗いながらも全体を見渡すことができる対象となった。地球科学が刺激した社会の課題意識の別のパターンは「地球環境問題」である。課題意識は地球の「フロンティア」から「限界」へと目を移した。

 この課題意識の特質はどのようなものだろうか?さらにこれと共鳴しあう地球観とはどのようなものだろうか?


11/Aug/1999

L. Margulis and D. Sagan, "Micorocosmos: Four billion years of maicrobaial evolution, Summit Books, 1986

田宮信雄訳『ミクロコスモス−生命と進化』東京化学同人、1989

の主張するところ:

*真核生物の誕生は遺伝子の突然変異や遺伝子組換えによる進化では考えられないくらい突然のできごとである。真核細胞は、ある細菌の細胞に、ミトコンドリア、プラスチド、スピロヘータ様の細菌が共生することによって、成立した。

*ミトコンドリアとなった細菌は酸素呼吸をすることのできるようになったもので、真核細胞の中で酸素呼吸によってATPを生産する役割を担う。プラスチドとなった細菌はおそらくシアノバクテリアで、水を分解して水素を得て糖を合成する光合成を担う。スピロヘータのような細菌は真核細胞の中で、鞭毛のような動く器官となることと、さまざまな管状の器官(その中でも重要なものは、細胞が有糸分裂をする際の糸状の器官)としてその役割をはたしている。ミトコンドリアとプラスチドはその内部に核の遺伝子とは独立した、もともとの細菌の遺伝子の一部を残している。真核細胞の管状器官には独自の遺伝子は残されていないため、スピロヘータ共生説はまだ証拠のない仮説である。

*性とは「二つ以上の細胞から遺伝物質を集め新個体を生じること」(日本語版p.145)。有性生殖の性はその一部の現象にすぎない。地球上でもっとも古くから行われてきた性は、細菌どうしの遺伝子のやりとりである。

*「進化を簡単ないわゆる下等生物からより複雑な人間最高とする高等生物へと進んできた一本の道と考えるのがいかに独断と偏見であるか」 「ダーウィンが”適者生存”といったのは進化が個体や種の間に血みどろの闘いが続くことであるとよく誤り伝えられているが、・・・生き物はいつも力を合わせ強く作用を及ぼし合い、互いに頼り合って暮らすもの」(日本語版p.3)


高野のコメント:

 MargulisとSaganは、生物の進化がどのようにおこるか、ということについての思想を転換することを主張した。進化が遺伝子の突然変異と自然淘汰のみによって起こるとすれば、生物の種は時間の流れとともに枝別れするのみである。これはリボソームRNAに基づく系統樹を正当化する考え方である。それに対して、彼らは性による遺伝子の組換えおよび細胞内共生によっても、(リボソームRNA系統樹を横切って)進化がおこるという点を強調した。

 生物の進化とは生存競争であって、強いものが勝ち残るという、<寒々とした>進化観から、進化は生物がお互いに共同することに成功したときにおきるという<暖かい気持ちになれる>進化観へ。彼らはこれを微生物の進化だけでなく、社会の変化についての考え方にまで拡張しようとしているようにみえる。かつて、ダーウィンの進化論を曲解して社会の変化についての見方に「適用」した社会ダーウィニズムは失敗に終わった。彼らは彼らの「共生進化観」を社会の変化の見方に「適用」しようとしているようにみえる。これは「適用」なのか、あるいは敷延なのか。彼らは世界観を提案している。


11/Aug/1999

 科学史・科学論の世界では、トマス・クーンの「パラダイム論」に代わって、「モード論」というものが登場して話題になっている。

小林信一「モード論と科学の脱−制度化」 『現代思想』1996年5月号

の主張するところ:

*現代の科学研究のやり方(様式=モード)には、少なくとも二つの異なったものがある。

*モード1:従来からの研究様式であるモード1の研究では、「取り組むべき研究テーマは、研究者個人の知的好奇心とそのディシプリンの研究の進展に即して自ずと決まり、特定の実用的成果を想定して研究が始められるものではない。研究の方法もそれぞれのディシプリンに固有のものがある。そうしたことを無視した研究は、そのディシプリンでは受け入れられないか、価値のないものと判定される」。(p.256)

*モード2:新しく登場した研究の様式であるモード2の研究では、社会の側からある問題設定があり、それを解決するために研究が組織される。例えば、「環境問題、医療保健、南北問題に関する研究活動を考える」と、「これらの研究の少なからぬ部分は直接に経済的利益を生むわけではないので、基礎的研究である。しかし、(これらには)社会的で現実的な目標が存在している」。(p.257) そのような目標は、ディシプリンの内部での時宜を得た研究目標とは重ならないことが多い。それにもかかわらず、今日多くの科学者がこのような研究に携わっており、これを例外として無視することはできない。

*「モード2では特定のディシプリンだけでなく、問題の解決に関与しうる広範な領域からの参加が求められる」(p.257)(トランスディシプリナリ)。「多数のディシプリンの研究者が参加するために、個々のディシプリンに依存しない独自の理論構造、研究方法、研究スタイルを生み出す。研究の成果は、そこに参加する研究者の出身ディシプリンの知識体系の発展とは無関係である。かといって独自のディシプリンが生まれるわけでもない」。(p.258)

*モード2では、研究の評価もモード1とは異なったものになる。「モード1では、研究結果がそのディシプリンの知識の蓄積にいかに貢献したかを同じ領域の研究者が評価する」。「モード2の研究活動の目的の多くは社会的なアプリケーションにあるので、そのために投入すべき、また投入した社会的資源が社会的問題の解決に結びつきうるかが直接問われることになる」。(p.259)

*「モード2は現実なのだ。・・・国の科学技術関係予算がGNPの1%に及ばんとしている状況では、科学技術活動は社会的に無視できない存在であるし、それだけの巨額な資金を研究者の好奇心を満たすためだけに使ってよいものとはとても思えない。・・・科学研究もモード2的にならざるをえないのである」。「だが、モード2の出現によってモード1が消滅するものではないことに留意する必要がある。モード2はディシプリンを形成しないので、人材育成の多くはモード1に依存しなければならないし、ディシプリナリな知識の源泉としてのモード1がなければモード2の存在も危ういからである」。(p.264)


高野のコメント:

 モード論が有効かどうかは、個々の学問分野の実態に即して検討すべきものである。地球科学ではどうか。

 地球科学にとってまさに「モード2は現実」である。現在、設立の準備がすすめられている文部省直轄研「地球環境科学研究所」は、「地球環境問題」に直接応えることを目標に、ハードウェアをもたない、研究コーディネーションのための研究所として構想されている。問題解決型を志向し、学部・大学院教育は行わない。これは、「モード2」を直接に、強く意識した構想であると思われる。科技庁の「地球フロンティア」など、日本でもすでにいくつかのモード2研究組織が動いている。博士号をとったばかりの若い研究者は、PDとしてこれらの組織で研究生活のスタートを切る機会がますます多くなっている。

 こういう状況でモード1の存在意義はどこにあるのか、と問うてみよう。 確かにモード2に携わる人材を育成するという役割がある。しかし、モード2的な研究の様式とまったく無関係な研究の内容ややり方、考え方でもって学生を育てても、そのような人はモード2には対応できないであろう。トランスディシプリナリであるためには、細分化した学問の系統樹の小枝を飛び出して、枝から枝に渡り歩き、遺伝子を交換し、共生する勇気と能力が必要とされる。そのような力量は(ほとんど定義によって)モード1では身につかない。

 一方で、トランスディシプリナリであるためには、他のディシプリンと交換、共同すべきなにものかを身につけておかなければならない。ハードウェアをもたないモード2研究機関にいても、分析技術や装置開発力は身につかない。

 つまり、モード1も変わる必要がある。もはやモード2を視界の外に追いやってディシプリンの要塞に閉じこもっているわけにはいかない。モード1はディシプリナリであってかつトランスディシプリナリでなければならない。問題設定においても、モード2の問題・課題をよく吟味し理解した上で、相対的に独立な問題をたてることになる。それはある場合には、モード2研究が前提としている価値観や枠組みを批判する結果になることもあるだろう。あるいは、そのことをねらって問題設定をすることもありうる。

 ちなみに、島津康男氏は環境科学に関して、モード2的な研究をすでに小規模ながら80年代に実践していた。彼はトランスディシプリナリであることとほとんど同じ意味で「一人学際」という言葉を使っていた。時代は20年を経て、島津氏に追いついたわけである。


12/Aug/1999

真木悠介『自我の起源−愛とエゴイズムの動物社会学』岩波書店、1993

の主張するところ:

*「この仕事の中で問おうとしたことは、とても単純なことである。ぼくたちの『自分』とは何か。人間というかたちをとって生きている年月の間、どのように生きたらほんとうに歓びに充ちた現在を生きることができるか。他者やあらゆるものたちと歓びを共振して生きることができるか。そういう単純な直接的な問いだけにこの仕事は照準している。」(p.197)

*「自分」とは何か、と問う時に、その解答はその起源をたどるところにある。それを動物の「個体」が成立したところまで溯ってたどる。

*ドーキンスの「利己的遺伝子」理論:「動物たちの『利己的/利他的』な行動や資質や関係をめぐる、時に互いに相矛盾するようにさえみえる多様なあり方は、動物の個体自体の『幸福』や『生存』や『繁殖』という観点からは統一して理解することができず、遺伝子の自己複製という水準から捉えかえしたときにはじめて、統一的に理解されうる。」(p.19)「このような統一理論を徹底させると、動物たちの行動や資質や関係を究極に支配している動因は遺伝子たちであり、個体は遺伝子が生存し増殖するための<生存機械>にすぎないという見方となる。」(p.20)

*「ドーキンスはライフ・サイクルの『ボトルネック化』ということを、『個体』の定義じたいとしている。『ボトルネック』化ということは、多細胞個体が必ず、単細胞の生殖子という『細い糸』を通してはじめて、次世代とつながってゆくようなライフ・サイクルをもつことである。」(p.67)「性という<革命>のかたちをとおして、個体の立場からみれば、死は真に徹底した死となる。性のある者は、同じ遺伝子型の個体を決して残さない。」「生成子(遺伝子のこと:高野注)の転生=再身体化の永遠の旅は、この個体の徹底した死をとおして貫徹する。そして個体は、くりかえしのない真に一回限りの生として、『個』として確立する。」(p.69)

*「個体は最初から、たとえば真核単細胞的な時代から、生成子の機械や道具や装置や操り人形というよりも『エージェント』に近い。つまりある種の『主体性』をもつ。」(p.83)「われわれが主題としたいのは個体が<テレオノミー的な>主体性を生成子から『奪い』、個体自体のものとして確立することがあるか、という問いである。」(p.84)

*「<個体>の真のテレオノミー的な主体化は、脳神経系の高度化の結果、個体が生殖以外の生のよろこびを強度に感受し、それらを自己目的化する能力を獲得する局面を待たねばならない。」(p.91)

*「主体は、主体として自己以外のものを『目的』とし、価値とすることもできる。<テレオノミー的な主体>の一般的な定義は、テレオノミーを自ら設定しうることである。つまりfor whatに対する答えを、みずからが選択しうるということである。その設定されたテレオノミーが自己自身であることもあるし、再び自己以外のものであるとこもありうる。」(p.93)

*「個体が個体にはたらきかける仕方の究極jは誘惑である。他者に歓びを与えることである。われわれの経験することのできる生の歓喜は、性であれ、子供の『かわいさ』であれ、花の彩色、森の喧燥に包囲されてあることであれ、いつも他者から<作用されてあること>の歓びである。つまり何ほどかは主体でなくなり、何ほどかは自己でなくなることである。」「Ecstacyは、個の『魂』が、このように個の身体の外部にさまよい出るということ、脱・個体化されてあるということである。」(p.145)


高野のコメント:

 「性格」も遺伝子に「書かれて」いる。NHKスペシャル「生命V」8月10日放送分はそのことをとりあげた。例えば「あたらしものずき」な性格を発現させると思われる遺伝子が特定されている。遺伝子は神経細胞間の情報ネットワークの形成を「制御」して特定の性格をつくる。一方、その情報ネットワークの形成の仕方は、外界からの刺激で影響を受ける。遺伝子には情報ネットワーク自体の設計図が書かれているわけではなく、それを作る部品(たんぱく)の設計図が書かれている。同じ部品でも組み合わせ方によって全体の製品は変わってくる。同時に全体の製品のありさまは部品の質によって左右される。

 「自分とは何か」という問いに答えようとして、遺伝子にまで溯って議論するというやり方は、十年前には突飛なことに思えたであろう。それは今日、もっとも単純で現実的な議論の仕方になっている。

 また、今日、ヒトのクローンが現実のものとなったことで、人間は性をへないで次世代に遺伝子を受け渡すことができるかもしれないようになった。人間に関して「性という<革命>のかたちをとおして、個体の立場からみれば、死は真に徹底した死となる。性のある者は、同じ遺伝子型の個体を決して残さない」とは断言できなくなった。「個体は、くりかえしのない真に一回限りの生として、『個』として確立する」という議論の根底が揺らいでいる。

 「自分とは何か」という問いに答えようとして、神秘的にならず、物質的な基礎を確認しながら議論するということは、まさに時代の課題である。ただ、この道筋に立ちはだかるのは、「無意識」の問題であろう。「無意識」は20世紀初頭にフロイトらによって「発見」された。「無意識」は<生きる力>がほとばしり出てくる根城である。また、「無意識」は、親子関係を通して次世代に受け継がれる。「感覚」、「記憶」、「思考」といった意識の活動については、脳の情報ネットワークのどこが担っているかが分かってきている。次は「無意識」の座がどこにどのような形であるか、ということが分かる必要がある。「無意識」は意識よりもより強く遺伝子とむすびついているかもしれない。


16/Aug/1999

J.Horgan, ”The end of science”, Addison Wesley Longman, 1996

ジョン・ホーガン『科学の終焉』竹内薫訳、徳間書店、1997


高野のコメント:

この本を読んだ科学者は、以下のいずれかの行動をとるだろう。

1)自分が所属する分野は「終焉」していないことの証拠を集め始める。

2)自分が所属する分野は「終焉」していることを認めて、なおかつ、その分野が社会に残ることは意義あることだという根拠を考え始める。

3)この本を読んだことを忘れる。

 ホーガンは三つの観点から、ある分野の科学が「終焉」している、と主張する。

 第1の基準は、その分野の最先端の主張が、非専門家にとっても<理解可能>であるかどうか。例えば現代の宇宙論や素粒子理論は、実験的・観測的な検証ができない領域で議論が行われている。そこでの議論は、一種の<神話>である。そのような科学をホーガンは「皮肉の科学」と呼ぶ。

 第2の基準は、過去にその分野で巨大な成功があったために、もうやることがなくなってしまった、という場合である。生物の進化にかかわる科学は、今日どれほど技術的な革新があったとしても、ダーウィンの進化論以上のなにものも付け加えられないでいる、とホーガンは主張する。収穫逓減の法則、「成功ゆえの危機」がその分野を特徴づける。

 第3の基準は、ホーガンが科学にその解答を求める、「究極の問い」に答えうるかどうか、というものである。「究極の問い」とは、『なぜいったい、存在者がいるのか、そしてむしろ無があるのではないか』(P.23)というものである。

 第1と第2の基準は、よくわかる。しかしながら、第3の基準は、私のようなスーパー唯物論的な現実感覚をもっている者にとっては、理解しがたい。「存在の問題」は切実な問題であるとは感じられない。せいぜい、ある種の切実さをもって感得されるのは「アイデンティティ」の問題であろう。私にとって、自分や他の世界の事物が「存在している」のは自明であって、問題なのは、どう存在しているか、どう存在すればよいか、ということである。また、科学がそういう類の問題に答えるべく存在しているとも思えない。それに答えてくれないからといって、科学が「終焉」している、といわれてもそれは筋違いである、という反応がありうる。

 しかしながら、ホーガンの中ではこの三つの基準は、矛盾なく、違和感なく、統一的に感じられていると想像される。そこに、科学というものはそもそもどういうものか、ということについての、ヨーロッパ・アメリカ圏と少なくとも日本での前提の違いがあることを感じる。ニュートンは明らかに近代科学の元祖であって、そして、彼は神の偉大さを「検証」するために力学の成立に情熱を傾けた。一方、日本において西洋科学は「富国強兵」「殖産興業」のための基礎として導入され、その伝統は現在においても「科学技術創造立国」というスローガンに受け継がれている。つまり、科学は、情報としては、世界に通用し流通するものでありながら、その根元にある問題意識はヨーロッパ・アメリカ圏と日本およびおそらく他のアジア、アフリカ、南米地域とはまったく異なっているのかもしれない。


20/Oct/1999

D.H.Meadows, D.L.Medows, J.Randers, and W.W.Behrens V, ”The limits to growth: A report for the Club of Rome's project”、 Universe Books, New York, 1972.

D.H.メドウズ、D.L.メドウズ、J.ランダース、W.W.ベアランズ三世、『成長の限界−ローマクラブ「人類の危機」レポート』、大来佐武郎監訳、ダイヤモンド社、1972。


高野のコメント:

 21世紀には世界はどういうふうになるか。こういう問題の立て方のお手本(パラダイム)を作ったのがこの古典的な本であろう。つまり、「21世紀」という100年のタイムスケールで問題を設定すること、「世界」というグローバルでかつ、自然としての地球と人間社会とを含む空間スケールで問題を設定することである。

 われわれの社会は経済成長率が正であることが「正常」であるという社会である。例えば何年かにわたって経済成長率が3%で推移すれば「安定成長」と呼ばれる。しかしながら、成長率とは指数関数的に増大するときの時間の係数である。そして、地球科学では、指数関数的に増大する現象は「不安定成長」していると考える。経済成長率が正であるということは、資本の「不安定成長」もしくは爆発的成長を意味する。

 20世紀は、世界の人口と資本が指数関数的に成長した時代であった。一方で、人口を養うべき耕作地の面積は当然限界がある。工業生産をするのに必要な地下資源にも限界がある。指数関数的な人口と資本の増大は、遅かれ早かれ、それらの限界に達する。問題は、いつ達するか、ということと、限界に達したらどうなるか、ということである。

 彼らはこれらの問題に答えるために、「世界モデル」を作った。これは地球科学でいう「0次元モデル」である。すなわち、世界(地球)全体の人口(0-15歳、16-45歳、45歳以上)、資本(工業資本、農業資本、サービス資本)、可耕作面積、「汚染」量、「天然資源」量のストックとフローを考えた時間発展モデルである。このうち、「汚染」と「天然資源」は、具体的なものを捨象して、世界でただ1種類の汚染とただ1種類の天然資源の量というものを考える。

 それぞれのフローはさまざまな因果関係を設定され、あるものは現実のデータから、あるものはありそうな関係を推定することによって、因果関係が定量化される。その関係は正のフィードバックループと負のフィードバックループからなる。負のフィードバックよりも正のフィードバックの方が勝れば、そのストックは指数関数的に増大する。負のフィードバックが勝てば、指数関数的に減少する。例えば、人口は死亡率よりも出生率の方が大きければ指数関数的に増大する。また、因果関係には一般に時間の遅れがある。人間が生まれて次の世代を生むには大人に成長するための時間がかかる。汚染が広がってから、人間の死亡率に影響がでるようになるまでには時間がかかる。

 このモデルに初期値を与えて走らせる。1900年からスタートして2100年まで計算する。いろいろなパラメータは感度解析を行ったのちに、1900年から1970年までの出力値が実際のデータに合うようにチューニングする。1970年以降は予測となる。

 こうして走らせたのが「標準計算」である。これは、1900年から1970年までの「世界の構造」がその後も不変だとして、将来はどうなるか、ということを示すものである。標準計算が示すものは悲惨な21世紀像である。まず、工業生産は天然資源が枯渇することによって、2020年ころにピークになったのち、急速に減少し、2050年頃には0に近づく。つまり、工業生産システムが崩壊する。その帰結として食糧生産システムも崩壊し、深刻な飢饉が発生する。工業生産システムのピークから20年くらい遅れて人口はピークに達した後、2100年には、ピーク時の半分に減少する。50年間で数十億人の人口減少がおきる、という世界は凄惨なものであろう。

 「標準計算」にさまざまなパラメータの変更を加えて、どうなるか、という計算も行っている。例えば、資源量の初期値が2倍だったら、とか、1970年以降、新しい技術が開発されて、汚染を防止したり、資源のリサイクルが行われたりしら、とかである。しかし、人口と工業生産のカーブのパターンはどれも似たり寄ったりである。すなわち、21世紀の中頃にピークに達した後、急速に減少する。つまり、世界システムが負のフィードバックに支配されて、工業の衰退と飢饉や汚染による人口の減少が起こる。システム崩壊のトリガーは、天然資源が枯渇する・人口が食料生産の限界を超える・汚染が蓄積して死亡率が急増する、という三つのパターンのどれかである。この三つの限界のうち、もっとも速く達したものが世界システム全体の崩壊のトリガーになる。

 彼らの結果を評価する上で、もっとも問題なのは、抽象的な、世界でただ一種類の「天然資源」とかただ一種類の「汚染」とかの量とその限界をどう見積もるかであろう。特に汚染が許容量の限界に達して世界システムが崩壊するパターンの場合には、「汚染」の量とその効果の見積りが本質的な問題になる。ただ、人口と食糧生産の限界の見積りは誰がやってもそう変わらないだろう。つまり、人口の限界がこういうタイムスケールでやってくることは間違いないのではないか。

 筆者らは、このような計算結果において、時間についての精度はないと繰り返し注意を促している。つまり、彼らが知りたいのは、人口や資本が限界に達する過程および達した後の系のふるまいのパターンやメカニズムであって、未来を予言するつもりはないと。しかしながら、何かとパラメータの値を変えても、2000年以降、数十年のタイムスケールでピークに達し、減少する、というパターンがみられる。それは数年ではないし、数百年でもない。いつ限界に達するか、という問題は天然資源量、食糧生産能力、汚染の許容量で決まる。いずれもが現在の勢い(成長率)で人口や資本が成長すれば、2000年以降、数十年しかもたない、というのが彼らの見積りである。

 では、限界を超えず、システムの崩壊が起こらない解(均衡状態)はないのか。そういう解はあるが、それが実現されるのは、放置すれば何かが限界に達するよりも数十年はやい段階で、人口と資本の両方を(強制的に)増大させなくする、という場合のみである、というのが彼らの結論である。数十年はやくからはじめなければ間に合わない。なぜなら、系の因果関係の中にはたくさんの時間遅れがあり、そのような非線型システムはオーバーシュートを起こすからである。数十年というのは、いろいろな時間遅れの典型的な値であり、それは1900年から1970年までの人口や資本の指数関数的増大の時定数でもある。

 人口と資本の両方を増大させなくする、ということは放っておいては起こらない。そこで世界的な戦略のもとでの各国の政策としてこれを行うよう筆者らは提言している。ただ、資本の増大を停止させるときに、現在の先進国と発展途上国の間の経済レベルの差を固定化するような政策は受け入れられないとして、発展途上国は引き続き経済成長を行い、世界がより平等になる方向で均衡をめざすべきだとしている。(したがって先進国の経済はわずかながらでもマイナス成長に転じることによってしか世界全体の資本の成長をストップできない。)


 標準計算で工業生産が頭打ちになる2020年の「数十年前」に、われわれはすでに突入している。現在、先進国ではすでに自然に人口の増大がとまりつつある。発展途上国でも効果はともかく人口の抑制策はたくさんの国が実行している。しかしながら先進国で経済の抑制策をとっている国はない。なぜなら、われわれの社会は、経済成長率が正であることでシステムが正常に機能する社会だからである。この社会のメカニズムを解明し、それを変更するための急所を見つけることなしには、このような政策は実現しないだろう。

 また、このような政策がもう間に合わないとすれば、世界システムが限界に達した後に、システムがどう崩壊するか、ということを真剣に研究する必要があると思われる。彼らのモデルでは限界に達する前も後も、世界の構造は不変である。しかしながら、右肩あがりの時期とそれがストップした後では、系の因果関係の中には大きく変わる部分があるのではないか。また、崩壊過程のパターンを具体的に知ろうとすれば、0次元モデルではだめで、地球上における人口や資本の不均質な分布を取り入れたモデルが必要になるだろう。例えば、日本は工業生産力は高いが、人口にくらべて農業生産力は低い。食糧生産の限界に到達して世界システムが崩壊し始めたときに、その影響は、工業生産力は低いものの農業生産力は高い国とは違う様相を呈するであろう。そのようなモデルを走らせて、より「うまく」崩壊させるシナリオを探ることが、この時期に必要な研究ではないだろうか(たぶんすでにどこかでやられているか)。

 


10/Nov/1999

大塚久雄『社会科学の方法−ヴェーバーとマルクス−』岩波書店1966

高野のコメント:

 この、戦後の日本における社会科学の古典中の古典を読み直し、知的な緊張感あふれる内容に、あらためてすぐれた学問の持つ力を感じた。

 著者は、「人間の営みにほかならぬ社会現象を対象としたばあい、自然科学と同じような意味で、科学的認識ははたして成りたつものだろうか。もし成りたつとすれば、どのような意味においてか」と問題を提起する。

 この問題には以下のような答えがありうる。つまり、自然科学の場合には、(研究者の意志と独立した)客観的な対象として、つまり独自の法則にしたがって運動する自然というものを前提にすることができて、かつ、その法則は因果関係の構造として認識することができる。しかしながら、社会科学の場合には、対象とする社会は自由意志を持った人間の営みであり、したがってその行動は因果法則にはのらない「非合理な」ものを含むのであって、本来的に計測および予測不可能な側面をもっている。したがって、社会科学の「科学性」は自然科学にくらべて程度の低いものにならざるを得ず、むしろそこに社会科学の独自性がある、というとらえかたである。

  そうではなく、ある方法論上のやりかたを用いることによって、社会現象も因果関係の構造として把握できる。すなわち、社会の運動についても客観的な法則性を認識できる、というのが著者の主張である。そのような方法論を提起したのがマルクスとヴェーバーであって、それぞれの方法論は重なりと隔たりをもった相補的なものとして、(近代社会についての)社会科学の基礎となると著者は主張する。

 マルクスの「経済学批判」の方法論:われわれは、日々、社会の制約を感じながら生活している。その制約はある場合には暴力的で強制的な力として、個人の意志や意図の実現をはばむ。ところが、そのような社会の強制力は、近代社会においては、自由な意志をもった個人の行動の総和の帰結である。自分の行動の結果が自分を制約する強制的な力となってあらわれる。この事態を称して「疎外」という。このことはつまり、社会は個人の自由意志とは相対的に独立した独自の法則をもって運動するということである。マルクスはそのような法則性が、自然発生的な分業、すなわち商品経済の徹底から成立するとする。このような社会では、人と人との関係は基本的には商品という物と物との交換関係となるため、そこには、個人の意志や意図とは相対的に独立した客観的な運動法則がはたらく。

  この法則(経済法則)が前提としているのは、社会を構成する個人がそれぞれの経済的利害に応じて、その利害を満たすように行動するというということである。この点に限っては、個人の平均的ふるまいが「非合理」であれば、この法則はなりたたない。しかしながら、生活に必要な物資のすべてを商品として調達しなければならない近代社会においては、経済的利害に反するようにふるまえば生活が成り立たないので、この前提は妥当である。つまり、商品交換の担い手として、社会を構成する個人は経済法則の命ずるままに行動せざるをえず、同時に、そのことが、経済法則にのっとった社会全体の運動を実現させる。

  ヴェーバーの「社会学」の方法論:個人は商品交換を通じて、経済活動だけでなく、さまざまな文化的な活動を行っているのであり、そのような社会の分野には、経済法則に還元することのできない、独自の法則性がある。このような法則性はどうやって認識できるか。

  確かに、個人はそれぞれの利害に応じて行動する。しかしながら、同じ利害状況におかれて、その利害を満たすように行動するやり方にはいくつものやり方があって、ある個人がそのどれを選択するかは、その個人が抱いている「理念」が決定的に重要な役割を果たす。「理念」とは「思想」・「宗教」・「世界観」と言い換えてもよいもので、個人の私的な状況によってさまざまである。さまざまであるけれども、ある人がある「理念」を持つにあたっては、やはり、(意識するしないにかかわらず)その人の利害を満たすような方向での「理念」をもつ。一方、ある利害状況にたたされるにあたっては、その人の「理念」が反映される。

  われわれはある個人がある行動をとった場合に、その人のおかれている利害状況とその人が持っている「理念」にそって、その行動の動機の「意味」を「理解」することができる。これがヴェーバーの「社会学」の方法論である。「利害」と「理念」という虫眼鏡でもって、ある個人または個人の集団をながめることによって、その行動・運動は因果関係の構造として「計測」でき(つまり科学的に認識でき)、ある場合には「予測」さえできる。

 


  地球科学において、19世紀以降の地球表層システムを研究対象に含めようとしたとき、われわれはこう問わなければならない。「人間の営みに本質的に影響を受けている地球表層現象を対象としたばあい、これまでの自然科学と同じような意味で、科学的認識ははたして成りたつものだろうか。もし成りたつとすれば、どのような意味においてか」。

  20世紀の半ばまでは、社会科学は、人間の社会活動を考える上で地球という境界条件を考慮する必要がなかった。しかしながら、人口と資本の指数関数的成長のおかげで地球という限界につきあたりそうだという状況におかれて、それを意識せざるを得なくなった。一方、地球表層システムの物質とエネルギーの循環において人間の社会活動のはたす役割が無視できなくなってきたために、地球科学は人間社会を地球システムの一部として考慮する必要に迫られている。つまり、ある種の地球科学とある種の社会科学とはいつの間にかその前提を共有しており、したがって、学問上の垣根をとりはらってもよい現実的な条件が整っている。

  しかしながら、学問上の垣根をとりはらうには、地球科学の側には先ほどの問い、「人間の営みに本質的に影響を受けている地球表層現象を対象としたばあい、これまでの自然科学と同じような意味で、科学的認識ははたして成りたつだろうか」という問題が真剣に検討されなければ、社会科学と同じ土俵に立つ資格が得られないと思われる。

  一方、社会科学の側においては、人間社会の歴史を地球史の一部と位置づけることによって、これまで暗黙の前提となっていた価値観を相対化し、あらわに検討する必要がでてくるのではないか。例えば、地球の生命の歴史は絶滅と進化の歴史であり、ある時代に主役を演じていた生物が絶滅し、前の時代には脇役だった生物が繁栄することが常態である。人類もそのようにして現在の地球の「主役」(グローバルな物質とエネルギーの循環をコントロールしているという意味で)になったわけであり、人類が絶滅するということは、個人には必ず死が訪れるというのと同じ程度には、当然のことなのである。このことをどうとらえるか、という問題は、今後の「理念」をどう形成するかということとかかわって、一度はとことんまで深く検討される必要があろう。


  「利害」と「理念」という二つの側面から、人間の行動の動機の「意味」を「理解」するというのが、ヴェーバー「社会学」の方法論だと、大塚は言っている。私が思うに、人間のふるまいを認識するときには、もうひとつ、「情念」という側面が必要であろう。「理念」というものが、意識され、言語化された世界観であり、価値観であるならば、それとは別の、無意識の、言語化されていない心の作用(これを仮に「情念」とよぶ)が重要であることを、われわれは日々経験している。ひとりの人間でも、同じような状況に置かれた場合に、その感じ方は、時々に異なり、場合によってはその状況が自分にとって「利」なのか「害」なのか、という感じ方すら正反対になることがある。

 もちろん、「社会学」の目標は、ある特定の個人が具体的にどう行動するかを理解することではなくて、ある社会の構造があるときに、人間が集団としてどのように行動するか、ということであろう。そういうときの人間の行動とは、ある集団に見られる個人の行動の、特徴的なふるまい、あるいは、一種の平均をとったふるまいであろう。具体的な個人の行動は、その平均値のまわりに分布しており、ある場合には平均値から遠く隔たることもある。

 もし、その隔たりがランダムであり、隔たることが「不合理」であり、そうさせるのが「情念」であるならば、「情念」に関する科学的な認識(因果関係の構造としての記述)は不可能で、それは社会科学の対象の範囲からはみでるであろう。しかしながら、私には、「情念」は平均値からの隔たりをもたらすこともあろうが、むしろ「平均値」自体を決定する重要な要素になっているように思える。

 例えば、現在の日本で、高校や大学を卒業した後、就職も進学もしない若者が増えている。こういうふるまいを、例外として(「平均値」からのランダムな隔たりとして)無視することはすでにできない。こういうふるまいは新しい「平均値」なのである。彼らは申し合わせたように、「自分のやりたいことがみつからなくて・・・」とつぶやくが、これは「理念」ではないだろう。同じ状況におかれて、「自分のやりたいことがみつからない」ということにこだわって、特定の選択をすることをしないでおくか、たとえそういうものがみつからなくても、そういうことはあまり気にせず、ある進路を選択するか、ということは、「情念」の問題であろう。

  ある構造をもった社会の中で日々生活をするうちに、自然に身についてくるある特徴的な感じ方とふるまい方というものがあれば、それは因果関係の構造として記述できるはずである。ただし、その方法はヴェーバーの場合よりもさらに微妙な、「科学的な認識」かどうかという点では、ぎりぎりのものになるだろう。この方法論は、精神医学の方法を応用することが可能であると思われる。それは、「感情移入」による「了解」というものである。この点での古典はカール・ヤスパースの『精神病理学原論』である。