科学技術フォーラム・「地球学に学ぶ安全保障と科学技術」分科会  2000/1/11

「21世紀問題」と「地球・社会システム学」の構想

 

高野雅夫

名古屋大学大学院理学研究科地球惑星理学専攻助教授

 

1. はじめに

 

世界は2000年問題をつつがなくやり過ごしたが、つぎに待ち受けているのは、食糧・環境・資源・エネルギーの危機という根底的な問題である。このような危険が21世紀中にはやってくるという予測や直感が多くの人にある状況で、私の問題意識は、1)市民の一人として、この問題をどうとらえればよいのか、2)科学の専門家としてこうした問題にどういう貢献ができるか、というところにある。

この報告では、21世紀の危機がどのように予測されているかを復習し、それを乗り切るための新しい研究の構想を提案する。

 

2.「21世紀問題」とはなにか

2−1)『成長の限界』

 21世紀に、人口および資本(産業活動)の成長が地球という限界に到達して、これまでの世界システムが崩壊する、というシナリオがありうることを指摘した古典的な研究がD.H.メドウズ、D.L.メドウズ、J.ランダース、W.W.ベアランズ三世、『成長の限界−ローマクラブ「人類の危機」レポート』、大来佐武郎監訳、ダイヤモンド社、1972年である。

 20世紀は、世界の人口と資本が指数関数的に成長した時代であった。一方で、人口を養うべき耕作地の面積は当然限界がある。工業生産をするのに必要な地下資源にも限界がある。指数関数的な人口と資本の増大は、遅かれ早かれ、それらの限界に達する。問題は、いつ達するか、ということと、限界に達したらどうなるか、ということである。

 彼らはこれらの問題に答えるために、コンピュータ内に「世界モデル」を作った。すなわち、世界(地球)全体の人口(0-15歳、16-45歳、45歳以上)、資本(工業資本、農業資本、サービス資本)、可耕作面積、「汚染」量、「天然資源」量のストックとフローを考えた時間発展モデルである。このうち、「汚染」と「天然資源」は、具体的なものを捨象して、世界でただ一種類の汚染とただ一種類の天然資源の量というものを考える。

 それぞれのフローはさまざまな因果関係を設定され、あるものは現実のデータから、あるものはありそうな関係を推定することによって、因果関係が定量化される。その関係は正のフィードバックループと負のフィードバックループからなる。負のフィードバックよりも正のフィードバックの方が勝れば、そのストックは指数関数的に増大する。負のフィードバックが勝てば、指数関数的に減少する。例えば、人口は死亡率よりも出生率の方が大きければ指数関数的に増大する。また、因果関係には一般に時間の遅れがある。人間が生まれて次の世代を生むには大人に成長するための時間がかかる。汚染物質が環境に放出されてから、人間の死亡率に影響がでるようになるまでには時間がかかる。

 このモデルに初期値を与えて走らせる。1900年からスタートして2100年まで計算する。いろいろなパラメータは感度解析を行ったのちに、1900年から1970年までの出力値が実際のデータに合うようにチューニングする。1970年以降は予測となる。

 こうして走らせたのが「標準計算」である。これは、1900年から1970年までの「世界の構造」がその後も不変だとして、将来はどうなるか、ということを示すものである。標準計算が示すものは悲惨な21世紀像である。まず、工業生産は天然資源が枯渇することによって、2020年ころにピークになったのち、急速に減少し、2050年頃には0に近づく。つまり、工業生産システムが崩壊する。その帰結として食糧生産システムも崩壊し、深刻な飢饉が発生する。工業生産システムのピークから20年くらい遅れて人口はピークに達した後、2100年には、ピーク時の半分に減少する。これはカタストロフィーである。

 この「標準計算」の示す21世紀像は悲観的なものである。21世紀の後半50年間で数十億人の人口減少がおきるとすると、それは目をおおうばかりの凄惨なものであろう。

 「資源」や「汚染」といった抽象的な量の「限界」をどう見積もるかは不定性が大きいので、彼らは未来を予言しているのではなく、こういうのは「ありうるシナリオの一つである」と主張しているということに注意する必要がある。当然、彼らはこうはならないシナリオも求めている。

 いろいろな計算をやって、彼らが到達した、ありうる“幸せな”21世紀のシナリオは、1)1975年に、人口の伸び率を(「強制的」に)0にすること、かつ2)1990年に、資本の成長率を(「強制的」に)0にすること、によって到達される、「均衡状態」であり、この世界では、もし食糧や工業生産物やサービスの分配が「公平」に行われるならば、1970年当時のヨーロッパの平均的な生活水準を世界中の人が享受できる、というものである。

 彼らの計算によれば、この2つの政策の実行が2000年まで遅れれば、もはや「均衡状態」は達成できず、21世紀半ばの食糧生産や工業生産の「崩壊」と人口の減少が避けられない。

 さて、われわれは、2000年にやってきてしまった。世界の人口伸び率を0にすることも、資本の成長率(=経済成長率)を0にすることも、できていない。すなわち、1970年以降の事態はほぼ、「標準計算」どおりに進行しいる。このまま行くと、「標準計算」では2020年に最初の危機がやってくることになる。

もっとも、このモデル計算自体の問題点や限界については、多くのコメントをする必要があり、必ずそうなるということを著者も主張していないし、私も同感である。しかしながら、そういうことが「ありうる」ということが示されている、ということが重要である。

この点で、今回のコンピュータの「Y2K年問題」は、いい練習問題であった。さまざまな深刻な問題が生じることが「ありうる」ことが指摘されたために、世界中で核ミサイルのコンピュータから家庭用パソコンまで対応がとられ、その結果、深刻な問題は現実には発生しなかったわけである。

 では「標準計算」が示す問題群(これをここでは「21世紀問題」と呼ぶことにする)を回避するためにはどうすればよいのか。

 世界の人口伸び率を0にすることも、資本の成長率を0にすることも、現時点では「自然」には不可能であって、著者はそれらを、「政策」として実行することを提言しているにとどまっている。『成長の限界』の限界はまさにここにあって、実現不可能な事態を想定して、「もしこれができたとしたら」問題を回避できると主張しているわけだ。

 とすると、以下の二つのことを考える必要があると思われれる。

(1)「標準計算」が正しく未来を予測しているとして、「21世紀問題」は、発生することを前提に、「どう発生させるか」、ということを真剣に考える。食糧不足による混乱や工業生産システムの崩壊の実態を予測し、できるだけ、「うまく」これらを「発生」させる方策を考える。

(2)「標準計算」が未来予測としては間違っている(時間はまだ残されている)ことを前提にして、問題を回避させる方策を探る。この際、例えば「経済成長を0にする」という、それ自体では現時点で実現不可能な政策を訴えるのではなく、成長する経済システムを転換する急所がどこにあるかを明らかにして、そこに政策努力や市民運動を集中させる。その急所を明らかにする。

 

2−2)『限界を超えて』

 ドネラ・H・メドウズ、デニス・H・メドウズ、ヨルゲン・ランダース著『限界を超えて−生きるための選択』ダイヤモンド社、1992年は『成長の限界』の著者たちが、その発表から20年たって、1991年の時点で、計算をバージョンアップさせ、その意味するところを新しい概念で語った著作である。

 世界モデルの計算自体は、その後20年間で大きな修正をほどこす必要はないことが検証された。したがって、計算結果については『成長の限界』の結論がほぼそのまま踏襲される。

 しかしながら、『成長の限界』が提起した問題は、この20年間に深められており、その成果の上にたって「持続可能な社会」という概念で、望むべき21世紀の世界像が語られている。また、『成長の限界』ではモデルには組み込まれていたものの、強調されることのなかった「再生可能資源」(土壌、水、漁業資源などをさす。彼らのモデルには耕作地の面積と生産力という形でのみ入っている)が「侵食」されることにも注意を呼びかけている。

 この本の結論を引用すると

 「(1)人間が必要不可欠な資源を消費し、汚染物質を産出する速度は、多くの場合すでに物理的に持続可能な速度を超えてしまった。物質およびエネルギーのフローを大幅に削減しない限り、一人当たりの食料生産量、およびエネルギー消費量、工業生産量は、何十年か後にはもはや制御できないようなかたちで減少するだろう。

(2)しかしこうした減少も避けられないわけではない。ただし、そのためには二つの変化が要求される。まず、物質の消費や人口を増大させるような政策や慣行を広範にわたって改めること。次に原料やエネルギーの利用効率を速やかに、かつ大幅に改善することである。

(3)持続可能な社会は、技術的にも経済的にもまだ実現可能である。・・・産出量の多少よりも、十分さや公平さ、生活の質などを重視しなければならない。それには、生産性や技術以上のもの、つまり、成熟、憐れみの心、知慧といった要素が要求されるだろう。」(p.viii)

 持続可能な社会を実現することを、筆者らは「農業革命」(狩猟生活から農耕生活へ)、「産業革命」とならぶ「持続可能性革命」と位置づけている。この点が本書のもっとも重要な論点だと思われる。農耕牧畜は、(人口の増加→)野生生物の減少によって余儀なくされた発明だった。産業革命も(人口の増加→)燃料の木材の減少によって余儀なくされた石炭の利用がもたらした。「持続可能性革命」も(人口の増加と消費水準の向上→)地球規模の資源の枯渇・侵食によって余儀なくされるものだ、と位置づけている。

「持続可能性革命」は、具体的には、人口および工業のさらなる成長を社会が意図的に抑制することと、資源の利用効率を著しく改善することによって達成される。では、どのようにしてそれを実現するか?筆者らに妙案はない。最後に筆者らが提起している呼びかけは、「ビジョンを描くこと、ネットワークづくり、真実を語ること、学ぶこと、愛すること」である。

 資源の利用効率を高めることは技術的な課題であり、現状でも達成に向けて努力が行われうるし、現に行われている。また、人口の抑制策は多くの国がすでに行っている。また、消費生活水準が上がれば、こどもの数が減るという負のフィードバック機構がある(これは彼らのモデルにも明示的に含まれている)。困難であり、「革命」でなければならないのは、産業の成長を抑制することであろう。

 例えば2000年の日本で、政府の最大の課題は「景気回復」すなわち、正の経済成長(=指数関数的成長)であり、また、国民の強い期待もそこにある。経済成長をゼロにする、という政策は、十分に経済が成長している日本においても現時点で実現する見込みはない。発展途上国ならなおさらであろう。

 あるいは、本書においても、再生可能資源が侵食されている例として、マグロがとりあげられている。西大西洋のクロマグロの固体数はここ20年間で94%減少した(つまり6%しか生き残っていない)。しかしながら、そのためにマグロの単価が上昇し、日本で「高級魚」としてもてはやされるために、産業としてはこれを捕獲して利益をあげることができるので、獲り続けられている→この事態は、マグロが絶滅したところで突然終わるであろう→その時、資本は別のものを利益の源とすればよい、というわけである。これは、例えば魚を扱う商社マンやその経営者の気持ちを切り替えるとどうなるとか、そういう気持ちの問題ではなく、資本主義経済の根底にあるシステムの問題である。

 こういう現実を前にして、筆者らの「語り、学び、愛せよ」という呼びかけは、一種の「啓蒙主義」である。もちろん、「啓蒙」は大切である。しかしながら、それは、システムの根底的な問題を転換する道筋がみえたときに、はじめて有効に作用すると思われる。そうでないときは、単に個人の「趣味」の問題になって、社会的な力をもてない。

 そもそも、なぜ、資本主義経済は正の成長をすることによってのみ正常に機能するのか、ゼロ成長でもうまくやっていくためのメカニズムはどういうものが考えられるか、それを構築するための変革の急所はどこか。こういう問題に明快に答えてくれる方や研究成果をご存知の方は、ぜひ教えていただきたい。

 

2−3)『地球環境報告U』

 『成長の限界』の「標準計算」が示す悲惨な21世紀のシナリオがありうるという指摘を前に、私たちが考えるべきことの一つとして、問題の発生を前提にして、具体的にどう問題がおこるか、ということを知っておく必要がある。その兆候は世界のいたるところで現れていることを示したのが、石弘之『地球環境報告U』岩波新書1998年である。著者は徹底したフィールドワークを通して、現実に起こっている環境破壊について報告している。全体を通して著者が指摘しているのは、再生可能資源が各地で急速な勢いで再生不可能な状態になりつつある、という点である。森林、水、生物資源は、適度な利用速度であれば、持続して利用できるのに、使い過ぎや不適切な利用の仕方によって、根絶やしにされてしまう、という現状である。

 『成長の限界』では主に石油や鉱物資源のような再生不可能な資源の枯渇が問題にされていたが、それらが問題になる前に、再生可能資源の方が先にだめになってしまう危険がある、というのが著者の主張だ。著者は、(直感として)2020年頃が「ヤマ場」だと言っている。(内容はまるっきりちがっているが、『成長の限界』が指摘した最初の「ヤマ場」も2020年であることは興味深い。)

 この報告の中で特に重要だと思われるのは、ルワンダ内戦やエルサルバドル・ホンジェラス紛争が、「人口戦争」だったという指摘である。これまで、ルワンダ内戦は民族紛争としての側面が強調されることが多かったのに対して、著者は、その背景には、人口増→無理な開墾→森林の消滅、土壌侵食→土地争奪紛争→内戦、という因果のくさりがあったと主張している。ここでは、人口増の圧力によって国家と社会が崩壊していくさまが描かれている。また、エルサルバドルでは、人口増による土地不足によって、「溢れでた」人々が大量にホンジェラスに不法越境し、これを送還しようとするホンジェラスとの間で戦争が引き起こさた。

 これらの事件は、ローカルな例である。これがグローバルに発生するのが「21世紀問題」にほかならない。食糧不足になった時、世界の人々が一様に飢えるわけではない。そこでは、国家間戦争の危険、内戦や国家や社会が崩壊する危険があることを、これらの例は示している。また、その現われ方は(いずれにしても悲惨なものであるが)、地域の事情によってさまざまであることも示している。では、アジアではどう現れるのか、日本ではどうか・・・。こういうことを冷静に考え、いろいろなシナリオを描いておく必要がある。

 

3.「地球・社会システム学」構想

3−1)『国土学への道』

ここでは、「21世紀問題」を目前にひかえて、科学に何ができるかを考える。まず、{人口・食糧・環境・資源・エネルギー}は、地球と人間社会の両方にまたがる相互連関する一つのシステム(これを「地球・社会システム」と呼ぶことにする)を構成していることをよく理解しておく必要がある。しばしば途上国では、人口が爆発的に増えることによって食糧と燃料の需要が高まり、森林皆伐と無理な開墾がすすみ、その結果、生態系の破壊と水資源の崩壊、土壌侵食・砂漠化が起こり、ついには人間が住めなくなってしまう。その結果、貧困、「難民」や、場合によっては戦争までひきおこされる。そのことが、さらに環境破壊を拡大させる。このような事態がグローバルに発生するのが、「21世紀問題」に他ならない。したがって、このような問題に取り組むには、個別的地域的な問題に目を向ける一方、システム全体のふるまいを理解し、予測し、(部分的であれ)制御するための研究が必要となる。

日本においても、主に国立研究所を中心に「地球環境問題」という看板で多くの研究が行われている。しかしながら、現状では、各省庁たてわりの課題設定になっており、{人口・食糧・環境・資源・エネルギー}システム全体を理解しようとする努力はほとんど行われていないと思われる。人口問題は厚生省、食糧問題は農水省、資源・エネルギー問題は通産省、環境問題は環境庁、という具合である。例えば厚生省で現在とりあげられている課題は「日本の少子化問題」であり、グローバルな視点は感じられない。(こういう状態では、「21世紀問題」が顕在化したときに、日本政府は国際的な貢献どころか、国内の危機管理もまったくできないと思われる。これは国際的にも国内的にもきわめて危険な状態である。)

では、どのような研究戦略を考えればよいか。ここで、われわれの発想の下敷きにすることができるのが、島津康男『国土学への道−資源・環境・災害の地域科学』名古屋大出版会1983年である。著者は戦後日本の地球物理学を思想的にリードしてきた論客である。地球は「ぬいめなし」の一つのシステムである、というのが著者の1960年代からの一貫した主張である。地球科学も、気象学・地震学・岩石学・古生物学などなど、さまざな分野に細分化している。しかしながら、地球には、「ここからここまでが〇〇学の領域」という境界(縫い目)が描いてあるわけではない。また、そういう地球を研究するときに、個別分野の専門家が協力する「学際的研究」ではだめで、一人一人が複数の分野に研究能力をもつ、「一人学際」が協力するのでなくてはならないと主張している。著者は、1970年代初頭には、地球と人間社会のあいだの縫い目もつながっているという認識のもとに、独自の「地球環境学」研究をスタートさせた。

著者らの主な手法は、コンピュータシミュレーションと「環境の現場監督」方式という独自の方法である。『成長の限界』とほぼ同様なシミュレーションを同時期に独自に行い、グローバルな問題意識をもった上で、著者らは、地域的な環境問題へ取り組む手法を開発した。"Global Mind and Local Action"が彼らの合い言葉である。

著者らがまず問題にしたのは、日本における「乱開発」とそれにともなう環境破壊や災害の問題である。日本の狭い国土における環境問題の本質とは、土地利用の競合にある。自然の特性に合致し、住民の要求に矛盾しない土地利用の在り方を考えるのが、日本における環境問題の急所であり、それを考察するのが「国土学」である。

著者らは、1975年から「環境の現場監督」として学生が地域に住み込み、その地域の自然と社会の特性を把握し、開発にかかわる「計画ミス」と「行動ミス」を防ぐ試みをスタートさせた。かれらはまず、自然の特性(地形・水循環経路・生態系)を調査し、また、「環境監視員」として、その地域で行われる開発を監視する。並行して住民の意識調査を行い、住民の要求や不安を把握した上で、住民と企業と行政機関との三つの間のパイプ役(「環境コーディネーター」)を果たそうとするものである。

また著者らは1980年代はじめころから、大地震など大規模な自然災害が発生したときに、ライフラインなどの社会システムが崩壊する「システム・パニック」を制御するためにはどうすればよいか、という問題に取り組んだ。ケーススタディとして、愛知県知多市における地震防災対策のアセスメントを行っている。その中では、地震発生によって生じる被害を想定し、住民の心配と要望を調査して、地震の「警戒警報」が発令されてから、地震が発生し被害が進行する「想定シナリオ」を作る。そのシナリオをもとに、市や消防などの行政機関の担当者を集めて、「図上演習」を行う。「図上演習」では、演習統帥者が、刻々と発生する事態を参加者に提示し、参加者はその場でどういう行動をとるかを考え、申告する。統帥者は、各参加者の「行動」をみて、さらに次の事態の発生を告げる・・・。というふうに演習はすすみ、最後までいった後で、個々の場面での各参加者の判断・決断が正しかったかどうかを反省する。

さて、現在の地球の{人口・食糧・環境・資源・エネルギー}システムの抱える問題とは、地域的な「土地利用」の競合(例えば森林を耕地にするか、そのまま残すか、といった)がもたらす環境破壊のグローバルな総合である。また、そのシステムが崩壊するという「21世紀問題」はグローバルな「システム・パニック」に他ならない。島津らが用いたコンピュータシミュレーションの手法や、独自に開発した「環境の現場監督」や「図上演習」という手法は、「21世紀問題」にとりくむ上でも有効な手法になりうると考えられる。

 

3−2)「21世紀問題」にとりくむための「地球・社会システム学」構想

 {人口・食糧・環境・資源・エネルギー}は、地球と人間社会の両方にまたがる相互連関する一つのシステムであり、これを「地球・社会システム」と呼ぶ。20世紀に爆発的に成長した現在のシステムは、世界のすみずみにまで及んでいる。このシステムが崩壊するシステム・パニックが、「21世紀問題」である。この問題は、遠い将来の問題ではなく、次世代の問題でもなく、今後10年から20年後が「ヤマ場」となる可能性がある、差し迫った問題である。個人の人生から国家の進路まで、どんな分野でも、何らかの将来計画を考えようとしたときには、この問題を考慮に入れない計画は「絵に描いたもち」に終わる可能性がある。

 この問題を前にして、科学にはどういう貢献ができるだろうか。それを「地球・社会システム学」として構想してみよう。

 

(1)地球・社会システム学の課題

@{人口・食糧・環境・資源・エネルギー}システムの特性を理解する。

Aこのシステムが崩壊するとして、その「想定シナリオ」を数え上げる。

B「想定シナリオ」に基づいて、崩壊をできるだけ「うまく」起こさせるための方策を考える。もちろん、何が「うまい」ことかを考えることも含む。

C崩壊しない可能性があるとして、崩壊しないための変革の急所を明らかにする。

 

(2)地球・社会システム学の方法論

 「観測」と「モデリング」と「実験」をリンクし、{「仮説の提起」→「仮説の検証」→「仮説の修正・放棄・再提起」}をくりかえす(「仮説ころがし」)。これは現在の地球科学の標準的(というよりは理想とする)方法論である。システムがきわめて大規模で複雑であり、観測からはそのうちのごく限られた情報しか得られないときには、このような方法が有効である。

(2−1)観測

 {人口・食糧・環境・資源・エネルギー}システムの特性を理解するための情報源は、各種統計資料はもちろんであるが、それだけでは足らない。このシステムはローカルな{人口・食糧・環境・資源・エネルギー}システムの総合であり、ローカルなシステムは地域ごとに多様である。この多様性を無視しては、意味のある「想定シナリオ」はできない。そこで、各地のローカルシステムの特性を理解するために「環境の現場監督」方式を用いる。その地域の自然の特性と弱点を調べるとともに、住民のニーズと不安(=「負のニーズ」)を明らかにする。「環境の現場監督」は、当然、そこに住んでいる住民が担うのが一番よい。

(2−2)モデリング

 いずれにしても、得られる情報は断片的なものである。世界各地に隈なく「環境の現場監督」を置くことは(少なくとも差し迫った問題のタイムスケールでは)できない。そこで、情報のない部分も含めて、システムの構成要素を設定し、それらの間の構造を記述したモデルをつくる。

 モデルにはさまざまな種類やレベルがある。もっとも基礎的なのは「概念モデル」である。これは、考えている問題のレベルにあわせて、何が本質的で何が枝葉末節かを区別し、必要な程度の単純化を行う作業でもある。

 その考察の上にコンピュータ・モデルをつくる。これにもさまざまなレベルのものが必要である。

@グローバル0次元モデル:世界をひとくくりにしたモデルで、『成長の限界』と同様のモデルである。少なくとも彼らの計算を「追試」し、計算の急所・弱点・限界を明らかにしておく必要がある。

Aグローバル多次元モデル:世界をいくつかの部分にわける。例えば先進国と途上国とにわけるとか、大陸ごとにわけるとか、国別にわけるとか、である。しかしながら全体のシステムはグローバルなものを考える。「21世紀問題」はグローバルな問題であるが、それは必ず、ローカルな問題としてたち現れる。具体的にどのように現れるかは多次元モデルで考察しなければならない。

Bローカルモデル:さらにローカルに個別の国や地域ごとにシステムの特性を表現するモデルで、グローバルモデルの結果を入力して、各地域でどのように問題が発生するかを理解・予測するモデルである。

 こういうモデルをさまざまな状況設定のもとに走らせながら、「想定シナリオ」をつくっていく。これは考え付く「シナリオ」が1000個あるとすると、コンピュータシミュレーションによって、「ありえない」シナリオを見つけて、その数を100にしぼる、というような作業である。「ありうる」シナリオはけっして一つではない。

(2−3)実験

 「ありうる」シナリオが一つには決まらない理由は、情報が不足していることと、より本質的には、社会は個人の意志によって動く可能性があるためである。われわれは、合理的な判断を下すにたる情報がない場合でも、日々決断をしながら生活している。「判断」はモデルにとりいれることができるが、「決断」をとりいれることはできない。

「図上演習」は、このような場合に、考察をすすめるためにもってこいの手法である。ある程度「想定シナリオ」ができた段階で、行政・市民・企業・マスコミなどの「代表者」に集まってもらって、図上演習する。例えば、「○月○日、今年の北米の小麦が不作であるという予測が出された」として、官僚はどう行動するか、商社はどう行動するか、マスコミはどこで情報を集めてどう報道するか、その報道に接した市民は何を求め、何に不安を感じ、どう行動するか・・・という次第である。

今や、「図上演習」は「インターネット上演習」として行える。一種のRPGとして、家庭のパソコンを使ってたくさんの市民に参加してもらうことも可能であろう。また国境を越えて「演習」を行うことも可能だし、必要であると思われる。

 演習の過程で、「想定外」の反応があることもあろう。それは、モデルの不備を指摘することになり、さらにモデルの更新を行うことができる。

 

(3)地球・社会システム学の研究成果の公開

 研究成果の公開については、従来どおりの報告書・論文・Webページ・政策提言という形で公開するのに加えて、「地球・社会システム学」にはユニークな側面がある。

 「図上演習」の結果は、考察を加えてすぐに公表し、参加者の反省材料にする。したがって、「演習」自体が、「地球・社会システム学」の研究成果の発表の場である。行政も市民も、これに参加することで、より具体的に研究成果を理解し、役に立ててもらうことができる。

同じことは「環境の現場監督」にも言える。「環境の現場監督」は調査だけでなく、「環境コーディネーター」としての役割も担うことが期待される。人々の利害が衝突している場合に、客観的なデータやモデルの出力を示して、人々の判断・決断の手助けをすることができる。

 

4.おわりに

 「21世紀問題」とか「地球・社会システム学」というネーミングは、今回の報告のために、私が苦し紛れに考え出したものである。そのよしあしも含めて、ご意見をいただき、具体的な研究をスタートさせたいと考えている。この種の研究に膨大な研究費は必要ない。必要なのは、専門家と市民のネットワークと想像力である。